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01 県内蚕種業の発展に尽力

佐藤八郎右衛門
0220satou.jpg ▽弘化3年 小県郡上塩尻村(現上田市)に誕生▽明治8年 蚕種製造業上田組合を設立、頭取に就任▽11年 長野県会議員当選。以後25年までその任に当たる。19年から県会議長▽19年 長野県蚕糸業組合取締所副頭取。29年 信濃蚕種業組合長▽25年 第2回衆議院議員当選▽27年 第3回衆議院議員当選▽30年 初代長野市長に就任(32年 病気退職)▽42年 死去63歳。

 『上田市誌 人物編』によれば、佐藤八郎右衛門は1846(弘化3)年、小県郡上塩尻村の蚕種家に生まれ12歳の時に父を失い、次の年に家を火災で失う不幸に遭いました。しかし八郎右衛門は誠実な性格で、父から受け継いだ蚕種業に励み、次第に家業を盛り返していきました。そして1872(明治5)年には上塩尻村の戸長となりました。

 江戸時代の末、ヨーロッパでは微粒子病という蚕の伝染病が大流行し、主な蚕種国であったイタリアとフランスの蚕種業は大きな打撃を受け、日本の明治維新の直前に蚕は全滅しそうになりました。そこで伊・仏の両国は微粒子病に冒されていない日本から蚕種を買おうとしました。日本国内での蚕種の販売価格より高い値段で取り引きされ、日本の蚕種は飛ぶように売れました。
 そのため日本の蚕種業者の中には目先の利益に追われ粗製乱造したり、菜種を混ぜて蚕種に見せかけたりする不心得者が出ました。

 そこで明治初年には日本の蚕種の輸出は不調となって価格が下がり、上田小県地方の蚕種業も困難な局面を迎えることになりました。これを打開するため、上塩尻村では優良蚕種の製造を目的にした「均業者」がつくられ、社長に佐藤八郎右衛門が就任して活動を始め、これが刺激となって上小地方には20を超す組合組織がつくられました。

 75年、八郎右衛門は蚕種製造上田組合をつくり、その頭取になって養蚕の成績や蚕種製造を検査し、良質の繭と蚕種の製造に努力しました。

 やがて、渋沢栄一を会頭とする蚕種製造組合会議局が東京に開局され、八郎右衛門は長野県を代表してその幹事の一人に選ばれ、蚕種の改良や製造に尽力します。

 86年、佐藤は長野県蚕糸業組合取締所副頭取となり、96年には信濃蚕種業組合長となり、まさに長野県の蚕種業の頂点に立ってその発展のために尽力しました。
 (2010年2月20日掲載)