市制施行に当たって尽力
長野町の最後の町長・中村兵左衛門(なかむらひょうざえもん)
は1844(弘化元)年、水内郡柏原村(現上水内郡信濃町)の古久屋三代目兵左衛門の次男に生まれました。幼名は為三郎と称し、長じて五代目兵左衛門を襲名。1903(明治36)年1月3日に没しました。享年60歳で、法名は「釋利迪」と言いました。
1879(明治12)年2月、第1回長野県会議員選挙で当選。以来、県政に参画し、92年4月、長野町長に就任しました。
97年4月、市制施行に当たり市長事務取扱となり、同年7月まで市制実施のため諸般にわたって尽力しました。その後は、郷里において悠々自適の生活を送りました。
中村は生涯にわたって遠大な計画の下に地方振興のために率先して指導実践に当たり、特に信越線の設置に際しては、川東案を退けて長野経由を実現。郷里においては、村民の反対にもかかわらず自ら敷地を寄付し、現在の黒姫駅(当時は柏原駅)の地に停車場を開設しました。
また、黒姫山官有地確定の折にも村民の意を押し切り、山麓87町歩(ヘクタール)を獲得し、それを村の共有地としました。後にその土地は柏原村全村水道敷設のための財となり、さらに黒姫高原開発の用地ともなりました。また、近くは信濃中学校建設の重要な資金も提供しました。
中村は水力発電の急務を痛感、地震滝(苗名滝)の落差を利用し、高沢発電所を建設させ地方人を驚かせました。そのほか県庁の移転運動には終始、毅然として反対論を主唱するなど識見の高さは他の追随を許しませんでした。
中村兵左衛門は県会議員在任中、議事録によれば県政の重要課題の審議に当たって、住民の立場に立って自らの考えを率直に開陳し、あくまでも事理を正し問題を究明し解決しようとする意欲に満ちた活動を展開しました。
=1948(昭和23)年10月、柏原村民一同によって建立された中村兵左衛門頌徳碑の裏面に、78(昭和53)年に信濃町長・小林一雄によって記された碑文の意訳要約による
(2010年1月1日号掲載)

は1844(弘化元)年、水内郡柏原村(現上水内郡信濃町)の古久屋三代目兵左衛門の次男に生まれました。幼名は為三郎と称し、長じて五代目兵左衛門を襲名。1903(明治36)年1月3日に没しました。享年60歳で、法名は「釋利迪」と言いました。
1879(明治12)年2月、第1回長野県会議員選挙で当選。以来、県政に参画し、92年4月、長野町長に就任しました。
97年4月、市制施行に当たり市長事務取扱となり、同年7月まで市制実施のため諸般にわたって尽力しました。その後は、郷里において悠々自適の生活を送りました。
中村は生涯にわたって遠大な計画の下に地方振興のために率先して指導実践に当たり、特に信越線の設置に際しては、川東案を退けて長野経由を実現。郷里においては、村民の反対にもかかわらず自ら敷地を寄付し、現在の黒姫駅(当時は柏原駅)の地に停車場を開設しました。
また、黒姫山官有地確定の折にも村民の意を押し切り、山麓87町歩(ヘクタール)を獲得し、それを村の共有地としました。後にその土地は柏原村全村水道敷設のための財となり、さらに黒姫高原開発の用地ともなりました。また、近くは信濃中学校建設の重要な資金も提供しました。
中村は水力発電の急務を痛感、地震滝(苗名滝)の落差を利用し、高沢発電所を建設させ地方人を驚かせました。そのほか県庁の移転運動には終始、毅然として反対論を主唱するなど識見の高さは他の追随を許しませんでした。
中村兵左衛門は県会議員在任中、議事録によれば県政の重要課題の審議に当たって、住民の立場に立って自らの考えを率直に開陳し、あくまでも事理を正し問題を究明し解決しようとする意欲に満ちた活動を展開しました。
=1948(昭和23)年10月、柏原村民一同によって建立された中村兵左衛門頌徳碑の裏面に、78(昭和53)年に信濃町長・小林一雄によって記された碑文の意訳要約による
(2010年1月1日号掲載)