
1892(明治25)年、隣県の群馬県前橋が市制を施行したのに刺激され、長野町の町会議員の中にも市制施行を唱える者が出てきました。また信濃毎日新聞も「長野町民も近来追々市制の実施を望むものの如く、今では殆んど与論とも云うべき程に至り」と論じ、町民の市制待望の声を掲載しました。
長野町の市制施行への本格的な動きは96(明治29)年になって活発化し、2月には市制施行調査の提案が可決され、水品兵右衛門以下7人の調査委員が選出されます。
こうして市制実施への世論を背景に同年11月22日、長野町会は市制実施調査委員からの「実施が妥当」とする報告を受けて市制実施願書提出の委員5人を選出します。
出来上がった市制実施申請書は12月23日に郡役所を経て県庁へ提出され、さらに県から国へ送られました。
こうして長野町の市制施行は、町会発議からわずか1年余の同年3月8日付の内務省告示第21号によって「明治三十年四月一日ヨリ長野県上水内郡長野町を市ト為ス」と認可されました。
市制施行を祝う長野市民の盛り上がりは大変なものでした。
「門前に大緑門をしつらえた高等小学校(仮市役所)で祝典をあげたあと城山館で祝宴がはられた。
市内各戸が球灯や国旗をかかげ、新市民は町ごとに趣向をこらした榊山・俄踊り・踊り舞台・底抜屋台などをくりだし、停車場から大門町へ登りつめ、さらに東之門町・元善町とねりあるいて盛大に祝いました。鶴賀遊郭田圃では、遊郭が寄付した花火が打ちあげられた。
この年つくられたといわれる記念市歌の一節、『人口参万家六千/丁字の型に連りて/頭に頂く善光寺/足に踏ゆるステーション』には、長野市発展の夢が象徴的にうたいこまれている」(『長野県史通史編第7巻』)。
中村町長はこの日から市役所事務取扱を命ぜられ、7月1日に新市長が決まるまで市行政を担当しました。
中村兵左衛門の項おわり
(2010年2月6日掲載)