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02 県会議長や衆院議員経て

0306satou.jpg 佐藤八郎右衛門は政界でも地域住民の支持を得て大活躍しました。長野県議会が1878(明治11)年に開設されると彼は県会議員に選出され、以後、毎回連続当選し、92年までその任務を遂行。特に86年からは県会議長となり敏腕を振るいました。

 90年に帝国議会が創設され、第1回衆議院議員選挙に立候補。第3区(小県、埴科)において堀内賢郎と戦いわずかな票差で落選しましたが、92年の第2回、94年の第3回には当選し、国政の場で活躍します。佐藤は蚕種検査法、養蚕奨励法案などの成立に努力し、得意の養蚕、蚕糸業の進展に尽力しました。

 前述のごとく97年4月1日、長野町は県内で最初の市制を施行しましたが、当面、誰を市長にするかが大きな課題でありました。当時は市長の決め方は現在と違って制限選挙で選出された市会議員による間接選挙で市長候補者3人が決められ、その中から内務省が裁可決定するという方式が採られました。そこで長野市議会は候補者選挙を行い、3人の市長候補者をそれぞれ得票数を付して次のように内務省に報告しました。

 佐藤八郎右衛門24票
 中村兵左衛門 16票
 鎌原仲次郎  15票

 その結果、97年7月13日、候補者筆頭の佐藤八郎右衛門が初代長野市長として裁可されました。

 佐藤が長野市長に就任できた理由の第一は、県会議長や衆議院議員を務めたという圧倒的な知名度でした。第二は養蚕、蚕糸業振興のために尽力したという地域に立脚した活動の実績が認められたことだと思われます。

 佐藤は就任後、長野市議会を通じて名誉職参事会員の選出、36区の全区長とその代理者の選出、行政府として花咲町・若松町・末広町・千歳町の新設、消防組の組織変更、城山館を公会堂として買収等々の緊急の諸事業を推進し、市制施行直後の市行政の整備と市民生活の充実向上に努力しました。

 佐藤市政当時の市民の衛生のための施策として、伝染病院の改善事業が注目されます。

 長野町は95年7月、城山北の県の所有地を借用し、それを敷地として避病院を造りました。市制施行後はそれを伝染病院と呼び、98年6月工費1400余円をもって、事務室・消毒室・食堂・物置・表門・板塀などを増築し、内容の充実を図りました。
(2010年3月6日掲載)