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02 商業会議所と密接不離に

 長野地域は明治維新の変革後、善光寺の門前町としての機能のほかに県庁所在地として行政上の役割が加わり、経済的にも飛躍的な発展を遂げることとなりました。
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 明治20年ごろから40年代にかけて長野市域が発展する契機となった要因には、諸官庁、文化施設の集中、金融・交通・通信の整備と拡大、商工業の発達、人口の増加などがありました。
 その担い手というべき商工業者の動きは活発で、商工業振興のための自治的組織としての商業会議所が全国各地に設立されました。

 商業会議所は商工会議所の前身で、地域の商工業の発展を図るため一定区域内の商工業者が組織する特別認可法人であり、原則として市をその区域として活動しました。

 長野市でも1898(明治31)年4、5月ころから、実業界の有力者の間に商業会議所設立の機運が高まり、99年5月、農商務大臣に設立認可の申請をして、翌1900年5月に認可されました。そこで議員(会員)を選出、初代会頭に中沢与左衛門、副会頭に藤井名左衛門を選出しました。

 長野商業会議所の創立は鈴木小右衛門が長野市長に就任した翌月のことでした。市長の鈴木は長野商業会議所の被選挙人にも名を連ね、その母体は洋物商組合でした。また、議員総会その他の会議場やその事務所として市役所が提供されており、市政との関係は密接不離なものでした。
 特に「直江津開港・郷津湾港速成」問題について、両者は県会と内務大臣宛に建議書を提出し、活発な運動を展開しました。

 そして07(明治40)年に、商業会議所は長野市と連名で「直江津開港請願書」を国会に提出しました。さらに鈴木市政時代に長野市のさらなる発展のために市と商業会議所が一体となって招致と実現に全力を傾注したのが08年の「一府十県連合共進会」でした。

 このとき、市と商業会議所は権堂町千歳座で市民大会を共催し、「長野市民は極力物産陳列場設置、共進会開催の実行を期す」との決議を行い、会議所議員、長野市会議員、区長全員を実行委員と定め、全市一体の世論の上に立って運動し、競争相手の上田、松本に勝ち、共進会の08年長野実施が実現しました。