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02 生い立ち〜両親とも教員経験 大変な「教育ママ」

02-ichikawa-0515.jpg 私は1927(昭和2)年に現在の小布施町に生まれました。市川という姓は母方のものです。母・市川つやは寺の息子だった朝比奈俊円、つまり私の父を婿養子として総本家の分家の分家という形で独立したわけです。

 教員を辞めた父
 両親とも教員でした。父は日滝小学校の教頭をしていましたが、宮内庁から交付されていた天皇皇后の写真を用務員さんが盗むという「御真影事件」が起き、辞職しました。教頭まで責任を取る必要はないのに、校長に連なって潔く辞めたということで、責任感の強い人という評判になったようです。

 その後は農協の理事を務め、区長や村議にもなりました。子どもだった私が覚えているのは、父が母屋の隣の茶室の辺りでニワトリを200羽くらい飼っていたことです。夜に産卵しますから、明るくならないうちに取って翌日の朝食に食べました。

 寺の息子だった父には、小学校入学前から檀家さんを相手に説教していたくらい、説教上手だったといううわさもありました。両親を一言で言うと「厳しい人」でした。父も厳しかったが、母も大変な「教育ママ」でした。当時こんな言葉はありませんでしたが、後に流行語になった時は、まさに母のことだと思い当たりました。

 小学校に入るころ、家で漢字練習をしている時でした。「國」という字を書いたら、隣で見ていた母が爪を立てて私の腿をギュッとつねるんです。その年齢にしては字が複雑で、書き順を間違えてしまったからです。今でも「国」とか「國」という字を見ると、腿に痛みの走る思いがするくらいです。

 戦争が始まるまでは家事や子守をする住み込みのお手伝いさんがいたので、母が家庭内ですることといえばもっぱら子どもの勉強の指導。机に向かう時はよく母が付き添っていました。

 1895(明治28)年生まれの母は17歳で教師になり、15年ほど勤めたと聞いています。私が生まれた時は、小布施小学校の訓導でした。訓導というのは当時の役職名で、今でいう教諭のことです。授乳の時間になると、お手伝いさんが赤ん坊の私を連れて行き、母が学校でおっぱいを飲ませたそうです。

 私の名前の健夫というのは、健康を願って母方の総本家の主人が命名したものです。私は長男ですが、実は四男。兄3人が幼くして死んでいるわけです。それで今度こそはと、本家の家の前に私を捨てる形にし、いったん本家の奥さんに拾ってもらった。その上で羽織袴を着せてもらって形の上で養子縁組の儀式を執り行ったそうです。

 この話を小学生の時に聞き、過大な期待を背負っているんだなと感じました。そのおかげか、私と弟は無事に育つことができ、親の期待通りに学問の道に進みました。

進歩的な婦人運動家
 市川の総本家は材木屋をしたり蚕種製造を営み、大勢の雇い人のいる豪農・豪商でした。なお父は東京の中学を卒業しています。また祖父は明治末に東京で開催された博覧会に母を連れて行っています。小布施の豪農・豪商にとって東京が身近だった証しです。そんな家庭で育った母は大変進歩的な女性で、婦人運動家として全国的に名を知られていました。
(聞き書き・北原広子)
(2010年5月15日掲載)
 
市川健夫さん