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04 作文で1等〜村報コンクールで 戦地の兵士を慰問

04-ichikawa-0529.jpg 経済的に余裕があり親が教育熱心、進学先は旧制中学という中産階級の遊び仲間が、桜井甘精堂の佐七さんら町内に何人かおり、小学校時代はそんな友人と交流していました。教育ママだった母親のおかげもあったのかどうか、6年のとき村報の作文コンクールで1等になったことはよく覚えています。

 1等でうれしかったというだけで内容までは覚えていませんでしたが、先ごろ刊行された『市川健夫著作選集』の編集に当たり、刊行会会長を務めてくださった上條宏之県短期大学学長が、その作文を見つけ出してくれました。1939(昭和14)年8月10日発行『小布施村報』の復刻版に掲載されていたものです。

 地理的センスも
 「日中戦争兵士への慰問号」という、時代を反映した特集号の作文に私は「鶏糞拾いも暑くて難儀なのだから、30度をくだらない炎天の戦地での働きはさぞ暑いだろう」「大人の話によると蚕も稲も当たり年なので、兵隊さんも故郷のことを心配せずに働いて」「日、満、支の少年と好い友だちになりない」という意味のことを書いています。

 上條さんは歴史家として、戦地の暑さと小布施の比較という視点や、農村風景と村の経済状況の描写に地理的センスを見いだし、戦争の相手国の子どもたちと友達でありたい、という部分に市川地理学の国際性の萌芽を見いだすと解説をされています。

 この作文からも分かるように、私の年代ですと戦争と生活を切り離すことはできません。同年齢の男性の1割が戦死し、2つか3つ上の年代になると2割が死んでいます。もし私の3人の兄たちが生きていたらその中に入っていたかもしれません。

 私の両親は軍の学校に行けとは一度も言いませんでしたし、私も考えたことはありません。ただ、地理という学問は戦争のために役立つものだという意識はありました。作文の最後の方に「せい一ぱいお働き下さって、おみやげにタンクの三つもぶら下げて、がいせんなさる日を待って居ります」と書いています。戦争による死ということはあまり考えず、生き残って戻ってくるのだという気持ちが強かったと思います。

 ところが、弟は大阪の陸軍幼年学校に入学しているのです。3歳違いによる戦況の悪化が親の考えも変えたのでしょうか。今となっては分かりませんが、母親が入学式に付き添って大阪まで行ったことは覚えています。

 教育ママの成果
 弟は大阪陸軍幼年学校にトップの成績で入学。1年生だった45年8月、終戦を迎えました。そこで信州に戻り、旧制須坂中学に編入しました。秀才の誉れ高く、旧制松本高等学校に入り、新制の東京大学に進んで、私と同じ学問の道を歩みました。これも教育ママの成果だと思います。

 母親は戦中国防婦人会で活動し、戦後はいち早く「小布施村婦人会」を結成、上高井郡連合婦人会も発足させました。農協婦人部の全国会長の時は、日本を代表する婦人30人の一人として中国を訪問、毛沢東主席と握手したそうです。

 外でも、家の中と同じように厳しかったようです。校長先生方を集めた研修会で講師をする時も「立ちなさい。立たない人は根性の悪い人」だとか言って踊りを強要したと聞いています。
(聞き書き・北原広子)
(2010年5月29日掲載)
 
市川健夫さん