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05 旧制須坂中学〜諏訪中学を好敵視 三澤勝衛に親近感

05-ichikawa-0605.jpg 私は1940(昭和15)年に旧制須坂中学に入学しました。小布施小学校からの進学者は、私のクラスで確か4人くらい。それでも隣のクラスの倍だったと記憶しています。

 当時はどこの中学にも寄宿舎があり、須坂中学にもいろいろな所から生徒が集まっていました。満鉄の仕事だと思いますが、親が満州に渡ってしまったからと、桐生から来ている生徒もいました。今は近くなった戸隠も、そのころは通える場所ではなく寄宿でした。映画評論家になった斎藤龍鳳さんは、父親が満州に行ったからと、母親に連れられて来ていました。

ハワイからの2世も
 留学生も何人かおり、中にはハワイからの2世もいました。戦争前に引き揚げたので親しい付き合いがあったわけではありませんが、英語の授業で「エアシップ」を「飛行機」と間違って訳したのにはびっくりしました。飛行機は「エアプレイン」。「エアシップ」は「飛行船」というのが正しい訳です。アメリカ人だからといって、必ずしも日本の英語の授業の勉強ができるわけではないと、その時に分かってしまいました。

 当時の須坂中学には、諏訪中学をライバル視する雰囲気がありました。長野中学でも松本中学でもなく諏訪中学だったのがなぜなのか。今となっては私の想像でしかありませんが、諏訪中学から来た先生が競争心をあおったのかもしれません。また、諏訪中学は研究者を輩出していたので、そういう校風を目指そうということだったのかもしれません。

 地理学との関係でいいますと、私が尊敬する三澤勝衛先生が晩年に教壇に立っていたのが諏訪中学でした。三澤先生は小学校しか出ていないのに独学で初等中等教育の免許を取って教員になり、教員の仕事をしながら学者並みの研究を深めた人です。52歳という若さで亡くなられたため存命中に教えを請うことはできませんでしたが、現在の諏訪清陵高校に設けられている三澤文庫には伺いました。

 残されたフィールドノートのスケッチが大変にいいわけです。地図だって市町村単位なんて駄目だ、標高が違うのだから集落別であれ、ということを言っています。非常に広範な研究をされた中で、徹底的に自然をとらえ、風土を知り尽くすことが産業育成の基礎であるとする「風土産業論」は、当時としては斬新で独創的。今になっても脚光を浴びています。

「三澤先生の再来」
 これらを信濃毎日新聞社が発刊しており、後に私が信州の風土と文化、産業について「信州学」と名付け、いくつかの雑誌に連載したときには「三澤先生の再来」と言われたものでした。私も高校の教員をしながら休日にフィールドワークと研究を続け、博士論文を書きましたから、その点でも親近感を覚えます。

 県立歴史館の初代館長になった時、歴史館に移築した農家に南天を植えてもらいました。南側にです。南天は母屋の裏側に植える人が多いが、これは間違いです。なぜならば、信州における唯一の熱帯植物である南天は南側に植えなさいと、三澤先生が書いておられます。
(聞き書き・北原広子)
(2010年6月5日掲載)

 
市川健夫さん