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06 県庁舎焼失で分県移庁論

 鈴木市政後半の1908(明治41)年5月10日、県都の象徴でもある県庁舎が全焼しました。この県庁舎は旧長野県草創期の1874年建築の貴重な建物でした。出火元は宿直室、原因は不明でした。
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 その12日後の5月22日には長野県師範学校の校舎4棟が火災に遭いました。これは放火の疑いがあり、同校は続いて6月15日夜、寄宿舎寝室から出火し、残りの校舎2棟が全焼しました。犯人は前回と同一人物の師範生で、動機は"校舎が燃えれば休校になり恋人に会える"という単純なものでした。

 この2つの建物の焼失が原因で、県政上2つの大きな問題が発生しました。

 その第1は県庁舎の焼失から発生した分県・移庁の南北問題であり、第2は師範学校の3校問題でした。

 特に第1の南北問題は県庁所在地の長野市政にとっては死活問題でありました。

 分県・移庁の問題は明治10年代から起き、最初は1880(明治13)年7月、市川量造ら7県議の"北に偏在する県庁を中央へ"の「県庁移庁の建議書」でしたが、これは審議がボイコットされました。 翌81年にも東筑摩・南安曇・諏訪・小県・南佐久の県会議員による移庁の建議がありました。82年6月には、南北信は位置・自然・風俗・人情・交通・産業等に差があるという理由から、「筑摩県再建の議に付建言書」(丸山英一郎ほか)が出されました。これは分県論の萌芽でした。

 戦前、分県・移庁の南北戦争が最も激烈を極めたのは明治20年代でした。これはいわゆる"松本騒擾(そうじょう)事件"として、長野県近代史に大きく刻まれています。

 88(明治21)年11月の県議会に「県庁移転建議書」が上程されました。移転候補地を上田・松本とし、提案者は北佐久の山本清明と西筑摩の遠藤彦作でした。これに対し、北信側議員は次の理由で反対しました。

 ・焼失後の県会議事堂の建設が既に長野に決定している
 ・移庁費のねん出に問題がある
 ・松本は鉄道、戸数、人口など社会的距離で中心ではない
 ・今後の府県統合で県庁偏在の問題はなくなる(当時、新潟の頸城3郡を長野県に合併させる運動が郷津港築港と絡めて起こされていた)

 そして、長野住民の反対運動は激化。"市中の人民はあたかも狂するが如き有様"を呈し、本会議開会前の11月25日の政談懇親会のとき、移庁論の遠藤、山本らの県議は暴行を受けました。