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07 現県庁舎敷地を県に寄付

 1888(明治21)年11月28日の県議会本会議は傍聴人が殺到し、あふれた人々が議会を取り囲むという物々しさでした。
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 県庁移転の建議案は20対21で採択されましたが、移庁候補地として上田、松本のどちらかは絞り込めず、採決の結果2案共に否決、結局移庁案は白紙に戻りました。
 そこで移庁派は、下伊那選出県議などが中心になって戦術を移庁から分県運動に転換させました。そして南信7郡が結束して89年9月、「分県建白書」が140カ村1万2000余人の総代から内務省に提出されました(不受理)。

 90年にはその建白書を元老院に提出し、受理されました(受理されたが進展せず)。
 そのような経過を経て、「松本騒擾事件」のきっかけとなった90年12月県会が開かれました。この県会に牧野元、折井庄司、窪田畔夫ら13人から「移庁建議書」が提出されました。そのときの議会勢力は数の上で移庁派が優勢でした。

 このため長野町の移庁反対運動は激化し、南信側議員と北信選出で移庁派にくみした小山鉄児議員が暴行を受けた犀北館事件が起きました。物情騒然、南信議員を実力で排除した中で本会議が開かれ、移庁建議書は提案者不在で取り上げず、すべてのルールを無視して91(明治24)年度地方税予算案を一挙に可決しました。

 これに対し、松本では県会決議の取り消し運動が激化し、各方面への請願、町民の納税サボタージュが行われました。その頂点に91年5月23日・24日の両日、政談演説会・移庁大親睦会(城山に1万5000人参加)等があり、群衆が警察署や郡長宅を襲撃し、双方に多数の負傷者を出し、37人が拘引、10人が起訴されました。

 この松本騒擾事件から17年後の1908(明治41)年に発生したのが県庁舎全焼です。長野市政担当者にとって、その成り行きは重大関心事でありました。県庁火災直後の5月26日、松本の開明座で「移庁実現市民大会」が開催され、壇上に立った初代松本市長の小里頼永は"いまぞ移庁のとき"と熱弁を振るいました。

   大会決議
 ○ 吾人は長野県庁 を松本に移すをもって適当と認む
 ○ 長野は水利がわるく欠陥都市である
 ○ 偏在した県庁を松本へ移せ

 だが、意外にも移庁運動は有力な指導者を欠き、盛り上がらず沈静化しました。鈴木長野市長はこの年の12月24日、好機を逸することなく県庁舎敷地として南長野幅下の土地(現県庁敷地)を県に寄付することを市議会に提案、議決され、それが受け入れられて県都・長野市の地位を保つことができたのです。
 
 2代鈴木小右衛門の項おわり