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07 鮭は銚子限り〜身近な鮭の生息限界 地理学の道への契機

07-ichikawa-0619.jpg 地理と歴史担当の松本重義先生の講義で、フォッサ・マグナの話よりさらに強烈だったのは「鮭は銚子限り」ということでした。こういう古い諺があったのか、先生自身のアイデアなのか、私にも分かりません。ただ鮭と酒、徳利のお銚子と地名の銚子をかけるユーモアで鮭の南限を教えてくれたわけです。

 鮭は寒流魚ですから、太平洋側ですと銚子、つまり利根川までが生息地の限界だという意味です。厳密にみると限界は九十九里浜の夷隅川(いすみがわ)ですが、この一度聞くと忘れられなくなる語呂合わせが、私が地理学の道に進む具体的な契機になったといっても過言ではありません。教員になってからの講義でも、たびたび引用してきました。

豊富だった千曲川
 私が子どものころ、鮭は千曲川でまだ豊富に捕れていました。小布施にも、行商の魚売りが鮭を運んできたものです。このように川をさかのぼる習性のある魚を「遡河性(さっかせい)魚」と呼びます。代表的なのが鮭、そして鰻です。小学生のころでしたか、母の実家で遊んでいた時、魚売りが家の前で鰻の解体をしていたシーンが頭の片隅に残っています。

 付近の千曲川に上ってくる身近な鮭に生息の限界があることを松本先生に教えていただいてから、私は鮭のことをいつも考えるようになりました。自然条件による生息限界地が何ごとにもあり、それに規定される文化が展開されているはずだという人文地理の醍醐味を感じ取ったわけです。

 地理学の道に入り、各地をフィールドワークすると、本来の目的とは別に必ず鮭について尋ね、鮭漁の痕跡を探しました。北九州の福岡県嘉穂町(現嘉麻市)で「鮭神社」を見つけた時には興奮しました。かつて筑豊炭田からの石炭を輸送するのに使われたことで有名だった遠賀川(おんががわ)沿いの町でした。

 この神社には「鮭大明神」が祀られ、地元の人は「シャケ様」と呼んでいました。調べてみると19世紀の終わり、明治半ばくらいまでは遠賀川を鮭が上っていたのです。また第2次世界大戦前までは、まだこの川で捕った魚を神社の鮭塚に納める人があったそうです。私は土地の古老から「少ない年で2、3尾、多い年では7、8尾獲った」と聞いています。

アイヌ語で神の魚
 北海道のアイヌ民族にとっての鮭は、かつて凶漁の年には餓死者が出るくらい重要な食糧でした。アイヌ語では「神の魚」という意味で呼ばれています。当然、鮭漁文化も豊かでした。私が調査に行った昭和40年代ですと、鮭の皮から造った靴を見ることができました。背びれの部分を底にして造るとと滑らない。うまく考えたものだと感心させられました。私はこの鮭皮の靴を実際に造っていた最後の女性に会っています。

 こういった文化はせめて記録だけでも残しておくのが研究者の役目です。松本先生のおかげで目覚めた鮭への興味を、文献調査と各地を歩く野外調査によって深めた結果は『日本のサケ-その文化と漁』という本にまとめました。1977(昭和52)年、NHKブックスから発売されると間もなく重版になり、5万部売れたヒット作になりました。
(聞き書き・北原広子)
(2010年6月19日掲載)
 
市川健夫さん