
(1861〜1921)
▽1861(文久元)年 伊那郡鼎村(現飯田市)に誕生▽84(明治17)年 鼎村戸長▽91年〜 下伊那郡会議員(2期)、長野県会議員(4期)▽1902(明治35)年〜 衆議院議員(3期)▽10年 長野市助役▽11〜21(大正10)年 長野市長▽21年 死去61歳
牧野は1891年、30歳の時に郡会議員と県会議員に選出され、地域の輿望(よぼう)を担って活動。特に注目された業績として、大平(おおだいら)街道の改修事業があります。大平街道は伊那谷と木曽谷を結ぶ重要な道路として、南木曽町橋場と飯田間を約40キロで結んでいました。道幅が狭くて屈曲が多く、しかも坂道が続いており、人馬の通行は困難でした。
牧野は98年、木曽側の吾妻村(現南木曽町)や、妻籠村(同)の人々からの賛同を得、私費を投じて下調査を実施し、「大平街道改修案-予算41万円」を県会に提出しました。
当時の県会の定数は39。事前に過半数の了解を求め、賛成を得る必要がありました。そこで牧野は各議員を訪ね、各個撃破の運動を展開し、20人の賛成を得ました。
いよいよ改修案が上程され、提案理由の説明に立ったのは雄弁家の更級郡選出の佐藤清志議員。彼は開口一番、「日清戦争後の未曾有の国家経済の危機のとき、大平街道の改修などもってのほかである」と改修案反対の演説をしました。
牧野はこの裏切り行為に憤激し、控室で「オイ佐藤君、よくも裏切ったなっ」と叫び、懐中の短刀を抜き佐藤議員に切りつけました。
このことがきっかけとなって、伊那谷青年隊と佐藤の出身地・更級郡の壮士連がにらみ合う騒然たる情況となり、時の知事が仲介。結局、1年後の県会で大平街道改修案が可決されました。
その後も工事をめぐって、土木団体の飯田組と木曽組との対立抗争がありましたが牧野の決死の尽力で和解し、7年がかりの大工事は1905(明治38)年7月23日に完成しました。
そのほか牧野は、実現はしませんでしたが1891(同24)年の「松本騒擾(そうじょう)事件」のあと"県会議員の直接選挙制""知事公選制"の実現に向けて努力しました。
(2010年6月19日掲載)