
「栗田神社の氏子は毎年、京都へデラックス旅行をしますのよ」。栗田地区の旧家の奥さんが自慢げに言う※。前回紹介した市街地の飛び地「山王の森」を所有して地代などが入るから、財政豊かな神社なのだ。
(※編注:氏子の旅行は日吉講で毎月積み立てをして実施しているものです)
筆者は三輪の旧横山地区が住まいで、神社は吹けば飛ぶような小社・社子神社の氏子だから、豪華慰安旅行などという御利益に預かったことはない。うらやましい限りだ。
長野駅東口から長野赤十字病院へ向かう大通りの途中、ドラッグストアの角を東へ曲がれば神社の森のこずえが見える。信州大学工学部に近いため学生マンション街のど真ん中になる。
鳥居をくぐると、左右に巨大なケヤキの古木が数本。いずれも腐れが入り、倒壊寸前のようだ。枝が落ち、幹が割れれば人身事故にもなりかねない。黄色いテープは「近づくな」の警告だ。階段状の参道が社殿の建つ高台へ導く=写真。
栗田神社は通称。正式には「水内惣社日吉大神社」の額が掲げてある。額の字句の由緒も不思議だが、境内の景色も異様で尋常の神社でないことが分かる。
ここは、かつて善光寺平一帯で権勢を振るった豪族・栗田氏が歴代住んだ居館の跡だ。社殿の立つ高台は、合戦に備えた防備の土塁である。境内は現在約2500平方メートルだが、「栗田城」と呼ばれた居館は二重の堀を巡らせた平地の城で、東西709メートル、南北1090メートルもあった(1990年の発掘)。
平安時代末期から鎌倉、戦国、近世初頭までの栗田氏の栄枯盛衰を語れば、そのまま善光寺平・長野市の歴史になる。
栗田地区の隣は七瀬町だ。この一帯はかつて裾花川が乱流していた。農業用水が整備されるにつれ田畑の生産力は向上し、栗田氏は「おやかたさま」と呼ばれ、のし上がっていった。1477(文明9)年隣の中御所の豪族・漆田氏を破り、領地を広げた。
(2010年1月23日号掲載)