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02 岡谷で生まれ〜ひどい戦争に憤り 活気あふれた市内

02-chino.jpg 私は1933(昭和8)年に岡谷市で生まれました。八十二銀行に勤めていた父の赴任先が岡谷だったからです。普通は2年か3年ごとに転勤するのに、親父の場合はずっと岡谷にいました。

 当時の岡谷は製糸業が盛んで、県内一の工業地帯だったわけですね。そういう土地柄ですから金を貸すにも特に勉強が必要で、貸し方がうまかったか何か、異動させるわけにいかなかったのかもしれません。親父は結局、40年一つの店にいて支店長も務めました。

6人きょうだい
 きょうだいは6人です。ちょうど男が3人、女が3人。当時は子どもの多い家がほとんどで、近所にも子どもがあふれていました。私は妹が1人いて、下から二番目で男の中では一番下です。上の兄貴とは12歳、下の兄貴とも5歳離れています。

 戦時中に、一番上の兄は軍隊に入りましたし、二番目の兄は蓼科山の方にあった鉄山に学徒動員されています。幸い我が家から戦死者は出ませんでしたが、戦争の影は物心ついたときから感じていました。

 子どものころの記憶として今でも浮かんでくるのは、小旗を振りながら出征兵士を送る人々や、戦死者のお葬式で町の人たちがゾロゾロと手厚くお弔いする光景です。上等兵のお墓は、大きくて立派な石塔だったことも印象にありますね。

 もっとも、そんな丁寧なお葬式ができたのはまだ戦死者が少なかった支那事変のうちで、大東亜戦争に入ってからは立派なお葬式も少なくなり、近所にも戦死者が出て、親が目を腫らして泣いていたのも覚えています。

 ですから、私自身は戦争には行っていませんが、戦争ってどうしてこんなにひどいんだ、という憤りを子どものころから抱き続けています。兄貴だって、軍隊に行って3年くらいで肺結核になって家に戻ってきましたが、そうでなければ死んでいたかもしれません。

 一方で、岡谷の町の活気は大変なものでした。銀行の社宅に住んでいたのですが、近くに市内でたった一つの、当時としては大きなマーケットがありました。日曜日になると女工さんたちがあふれるように買い物に来るんです。香港に行くと、フィリピンやインドネシアからメードさんとして出稼ぎに来ている女性たちが、休日にワッと町に出てくるのと同じ。にぎやかでしたよ。面白がってついていったりしてね。

 それから工場の煙突。町中に煙突が立っていて「岡谷のスズメは色が黒い」なんて言われたものです。人口だって今の2倍くらいはあったんじゃないでしょうか。

 ほかを知らないと岡谷の発展ぶりに気付かずにいたかもしれませんが、親父が実家のある上田市の郊外に毎年里帰りしていましてね。なぜか、きょうだいの中で私だけ連れて行くんです。

都会でなかった長野 
 上田に行くには、冠着トンネルでSLの煙で真っ黒になって、まず篠ノ井に出なければなりませんでした。その途中でたまには善光寺参りでもするかと、長野に寄ったことがあります。長野って大都会だと聞いていたのに、岡谷に比べると田舎だなあと思いました。
(聞き書き・北原広子)
(2009年11月7日掲載)
 
茅野實さん