
1907(明治40)年には翌08年開催予定の「一府十県連合共進会」の貴賓接待館として城山館東館が建築されました。この建物は「蔵春閣」と呼ばれました。総建坪は205坪余、大広間は182畳もありました。
その後、蔵春閣には音楽堂も付設され、社会教育の発展に大いに寄与するようになりました。
利用状況の推移を見ると、牧野市政が始まる明治の終わりごろから大正期にかけて激増しています。
この時期は大正デモクラシーの風潮の中で憲政擁護の政治運動が活発化し、城山館を会場として"県民大会"などが開かれました。
その代表例として、1913(大正2)年の「政友会・国民党両派連合の憲政擁護長野県民大会」や「憲政擁護長野県同志記者大会」などがありました。
また、城山館東館(蔵春閣)は大正期に、しばしば音楽会にも利用されました。
中でも声楽家・柳兼子は18年から26年にかけてほとんど毎年、県内に招かれて演奏し、聴衆に大きな感銘を与えました。
18年9月29日、蔵春閣で開かれた音楽会は、独唱が柳兼子、伴奏は榊原直で、司会は五つ紋を羽織った白樺派教師の笠井三郎。目的は「白樺美術館」建設のためでした。その日は折からの台風で荒れ、格天井の桝(ます)板が落ちましたが、聴衆は柳兼子の素晴らしい声量のためと信じていました。
21年9月の音楽会は、"朝鮮美術館設立資金募集 柳兼子独演音楽会"と銘打って開かれ、曲目の解説は長野師範附属小学校訓導・田島清でした。
(2010年7月10日掲載)
