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03 幼いころ 遅れてる長野の印象 岡谷の町も様変わり

03-chino.jpg 「たまには善光寺参りでもするか」という親父に連れられて長野市に立ち寄ったとき、何がびっくりしたかって、電話です。まだ私は小学校に上がる前だったと思いますが、岡谷の電話は自動ダイヤルでした。父が銀行員だったので、社宅にも電話がありましたしね。 ところが長野で見たのは、四角い箱に目玉のようにベルが2つ付いていて、ハンドルを回して「もしもし」とやるタイプ。大都会と聞いていたけど、長野って遅れているなあ、と子ども心に思いました。それに岡谷では、当時から都市ガスでしたね。

 後に八十二銀行に入社して長野市で暮らすようになったわけですが、当初は諏訪地域と善光寺平の人たちの気質の違いに驚きました。工業技術は理屈で考える必要がありますから、諏訪の人は理論的というか、全体に物事を理屈で進めていく傾向があります。中小企業が多いこともあって独立心も強い。

 だから、何か疑問があったらすぐに質問しますよ。「俺、それ反対だ」「何言ってんだ」と、けんか腰でも議論する。しかし、理由を聞いて「そうか、分かった」となると一緒にやる。

 長野に来て戸惑ったのは、議論しようとすると、みんな黙るんです。黙るから分かってくれたんだと思っていたら、後から「この間は黙っていただけ」と言われる。そういう気質を知ってからは気を付けるようになりましたね。怒りを買わないように、と。同じ長野県でも気質に違いがあるなと知りました。
 それぞれがキチンと発言して、その発言には責任が伴うということは民主主義の基本です。後でお話ししますが、戦後の民主主義教育でこのことを学んで以来、今日までの私の原点なので、黙っていてはいけない、という気持ちがあります。

 意見を求められる場では必ず手を挙げる。そういう場なら、反対意見を述べても怒られませんからね。多少「あいつは変なヤツ」と思われるくらいなものです。

 女工さんたちで華やかだった岡谷の町も、私が小学校低学年、大東亜戦争のころから様変わりしてきました。製糸業が不景気になって生じた空き工場に、戦闘機を造る会社だとか、オートバイを造る会社などが疎開してきたのです。戦時中に疎開工場に勤めていた人たちが、覚えた技術を生かして、戦後いち早く精密工業に転換し「東洋のスイス」と呼ばれるようになるわけですが、あの工業地帯がよく爆撃されなかったものだ、と今でも思います。

 「あのころに戻りたい」と思うようないい思い出はありませんね。とにかく腹が減っていました。畑も田んぼもないサラリーマンの家で、きょうだいが6人もいるのですから、食べ物がないんです。お金持ちの家の子が、ジャムの入ったカニの形のパンを食べているのがうらやましくてね。

 親が八十二銀行勤務といっても給料が良くなるのは偉くなってからで、平社員は知れてます。工場主などが当時の岡谷のお金持ちで、食べ物があるのはお百姓さん。学校に持っていく弁当にも差がつきます。こんなことになる戦争って何なんだ、という疑問がいまだに私の体に染み込んでいます。

 戦況が悪くなって、ますます食糧がなくなった1945(昭和20)年。とうとう私と妹が「口減らし」で、上田市の親父の実家に預けられることになりました。
(聞き書き・北原広子)
(2009年11月14日号掲載)

 
茅野實さん