
のもの」となってからは、蝶採りが遊びの域を越えた生活の重要な部分になったわけです。生物部の中でも同年生の大島君、榊原君、今井君そして私の4人は周囲から「蝶キチ四人組」と揶揄されました。
放課後も山へ
天気の良い日曜や休日はもちろんですが、夕暮れ近くに飛ぶ蝶もいるので放課後も蝶。榊原君の家に道具を預けておいて、そこで着替えて近くの山に行ったものです。遠くに行くには昼飯が要りますが、終戦後も食糧不足が続いており、配給頼りのわが家におむすびを作るほどの米はありません。そこで、大豆やジャガ芋、大根などの周りにご飯粒が少し付いているようなご飯?を弁当箱に入れていく。それでもうまかった。たまには配給された黒砂糖を持って行き、お湯に溶かして飲んだ。あれは格別うまかったです。
上諏訪までは通学パスがありますが、諏訪の中でも青柳や富士見に行くには汽車賃が要りますね。そのつど母ちゃんにねだり、「なんでお前だけ特別...」と悲しそうな顔をされたことも思い出します。
山に行くと熊がいますよね。ですから、熊よけの「かんしゃく玉」を持って行くんです。石にぶつけると爆発する。あれは買うと結構高いものだから、学校の実験室で手作りしたことがありました。
ところが、乳鉢に入れて戸棚の一番上の奥にしまっておいたのを、ある人が降ろしてたたいちゃったんです。爆発して砂利なんかが目に入って。「俺たちなんてことしちゃったんだ」と、青ざめましたよ。それから3週間ばかり、失明しなかったことが分かるまですっかり落ち込んでしまいました。大事にならなかったのは本当に幸いでした。
蝶グループでは独自のガリ版刷り新聞も発行していましてね。それぞれ研究の成果を発表するわけです。雪の中、小枝の先の若芽の付け根から探してきた卵を孵化させて飼ってみたら○○蝶になったとか、図鑑にはない食草を見つけたとか、いろいろ研究している。
それに比べると私なんか、面倒な研究よりも珍しい蝶を採りたい一心で、蝶仲間のレベルからしたら下の方。唯一の功績といえば、当時まだ諏訪では採られていなかった(今では珍しくない)クロミドリシジミというのを採ったことくらいでしょうか。
中学3年の時、学制改革があって、私たちは同じ学校で今でいう中高一貫教育を6年間受けることになりました。おかげで高校受験にわずらわされることなく蝶にのめり込めたのですが、高校3年になると親父から「蝶採りなど子どものすること。兄に続いて東大を受けろ」と言われ、その夏を最後に蝶をやめる決心をしました。
それから27年間、蝶は封印していました。当時は生物学者でもない限り、虫を追う大人は「変人」扱いでした。銀行で蝶好きが知れたらヤバイと思っていましたからね。
沖縄へ採集に
ところが八十二銀行の東京事務所長の時、部下に蝶好きがいて、沖縄が日本に復帰したこともあって、子どものころあこがれていた沖縄の蝶を採りに行くことになりました。幸か不幸か、これで心の底に封じ込めていた蝶への思いに火が付いてしまいました。
その後の蝶採り再開と現在最も力を入れている環境保全活動につながる、私にとっての重要な心象風景は次回でお話しします。
(聞き書き・北原広子)
(2009年12月5日掲載)