
子どものころのあの蝶に、あの山で再会したらどういう気持ちになるのだろう。不安と期待にどきどきしながら諏訪の山野を訪ねました。
変わり果てた故郷
しかし、私を待っていたのは蝶たちではなく、ごみ焼却場の煙突、ゴルフ場、アスファルトの道路、別荘地...。あゝ何てこと。変わり果てた姿を見て、いつでも会えるからと30年近くも故郷を顧みなかった悔恨が胸を突き上げ、私は地べたにへたり込んで泣いてしまいました。自分の過去を抹殺されてしまったような感じです。そんな気持ちになるとは思ってもいなかったのですが。
人間というのは、意識の底に子どものころのマグマみたいなのをずっとくすぶらせているのかもしれません。自然破壊の痛みが私自身の痛みとして迫ってきました。それから私はゴルフをやめ、スキー場も嫌いになりました。経済成長に偏って環境保全をおろそかにしてはいけない。この時の衝撃が後の環境保全協会設立につながっているわけです。
蝶を追えるのは、残念ながら4月から9月までの半年、それも天気の良い日だけ。中学・高校時代の残りをどうしていたかというと、これは敗戦後のことで結構暗かったですね。
私は幼いころから世の中の辛い面に目がいってしまうようなところがあり、それに痛い目に遭うことや死への恐怖も強かったと思います。近所に戦死者が出ることや、食べるものさえなくなる戦争への怖れが心の片隅にずっと宿っていました。でも小学校では修身以外は社会のことは教わりませんし、問題意識を持たせるような教育もありません。
中学に入って、私にとってショックな出来事がありました。社会科の授業で「日本の将来について」というようなテーマの作文を書けと言われました。私はこれが全く書けなかったのです。
テストができないということは、それまでなかったんですね。文章で答えるものなどで少し減点されることはあっても、答えのはっきりしている教科はたいてい満点でした。できる子が集まる諏訪中学に入学時、4組の級長を命じられたので、多分入試も4番目の成績だったんじゃないでしょうか。
社会にも目を向けて
ところがその作文は書けなかった。零点。すごいショックでした。世の中のことをちゃんと考えないと、綴り方も書けないんだと思って、これはしっかり社会に目を向けなければいけないと思うようになりました。
それで蝶採りのほかは本を読み映画を見て、どうして戦争になってしまったのか、欧米と日本の社会はどう違うのかなど世の中について考えました。
本は兄貴から「これを読め」と勧められたのもあります。小説よりも『聞けわだつみの声』とか『中国の赤い星』など、戦没学生の遺稿集やジャーナリストによるドキュメンタリーの方に興味がありました。
(聞き書き・北原広子)
(2009年12月12日掲載)