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09 東大法学部〜改善された食糧事情 民主主義は怪しく

09-chino-0101.jpg 東京大学法学部に入学したのは1952(昭和27)年です。当時も諏訪では未成年のパチンコは許さない雰囲気だったので、上京して兄の下宿に転がり込んで試験日を待つ2日か3日は解放感からパチンコをやりました。面白かった。

 兄貴に「勉強しなくていいのか」と言われましたが、それまで120日間くらいは勉強していたので、土壇場で2、3日勉強したってどうなるものかですよね。おかげで罰が当たって試験では国語の「若水」の意味が分からず、一問まるまるダメ。これは滑ったかな、と思ったのですが合格しました。

雑草90%の乾麺
 私は生来勉強は好きではなかったし、周囲の多くの学生のように役人や裁判官が希望で法学部にしたわけではなく、一番の関心は「どうしてあんな戦争が起きたのか」です。それには政治がどう動いたかを知りたくて、政治学科のある法学部に進んだわけです。そのころ、まだ日本は貧しかった。私の中高生時代は食糧も配給制で、特に終戦直後は戦時中よりひどいくらいでした。小麦粉10%、雑草90%という乾麺は忘れられないですね。小麦粉がろくに入っていないので、煮ると麺がブツブツに切れるんです。味なんて、言うまでもありません。

 戦時中、まだ小さかった妹が親父の実家に預けられることを同意したのは、「この麺を食べなくてすむならどこへでも行くという気持ちだった」と言っていました。

 そのうちにアメリカの放出物資の鮭缶がどっと来たり、家畜用ではないかと思うようなかび臭いトウモロコシの粉とかが来て、ここにいくらか小麦粉を混ぜて蒸して食べました。コッペパンが登場した時は、こんなうまいものがあるんだと感激しました。

 大学時代も米穀配給通帳は持っていましたね。ただ配給券以外にラーメンなんかを買って食べることができたり、食糧事情は改善されてきて飢えることはなくなりました。それだけでもすごいことのように感じたものでした。

 私が大学に入る前後の社会状況というのは、終戦直後にGHQから吹き込まれた理想の民主主義の空気が、たった数年で怪しくなった時期に当たります。49年にそれまで盛んだったゼネストがマッカーサーによって中止され、レッドパージが始まりました。警察予備隊ができ、私は国民がまだ十分な食糧もなく苦しい生活をしているのに、軍備にお金を使うなんてと憤りを感じていました。

破防法反対でデモ
 大学に入学した年52年は、第3次吉田内閣が「破防法」(破壊活動防止法)の制定を目指して法案を提出しました。治安維持法(戦前の弾圧法)の再現ではないかと、都内では学生による反対デモが行われていました。やや左寄りだった兄貴が薦める本を高校時代から読み、大学ではマルクスに共感し、偉い人よりも一般庶民の側に関心のあった私はさっそくこのデモに参加しましたが、そんな東大生は多くはなかったですね。

 あのころの法学部は14のクラスから成り、私はフランス語の13D。45人くらいの同級生の中で、戦争反対だ、マルクスだ、と政治について関心を持っていたのは2、3人。のんきな連中だなあと思ったものです。
(聞き書き・北原広子)
(2010年1月1日号掲載)

 
茅野實さん