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10 学徒動員〜東京高師に入学し府中や日光で労働

0710Ayumi_ichi10.jpg 合格通知は電報で届きました。受け取るとすぐ、須坂中学に報告しに駆けつけました。担任はじめ先生方には大変喜ばれました。東京高等師範には、長野中学からは毎年何人かの進学者が出ますが、須坂中学からは長いこと入学者がありませんでした。

=写真=東京高師時代に中学校の同級会で(前列右端が私)

 東京高等師範学校は1872(明治5)年の学制発布で設置され、戦後の学制改革で旧制文理科大学などと共に東京教育大学になるまで、戦後まで存続した全国4校の官立高等師範学校の一つです。全国から受験者があり、国語科は19倍という難関。私の受けた地歴学科の競争率は6倍でした。当時、日本の占領下にあった内モンゴル、台湾、朝鮮からの留学生もいました。授業料は免除され、全寮制でした。

 同級生でも10歳差
 私のように最年少の17歳で入学した者は1割くらいで、多くは中学5年卒業者。浪人もかなりいますし、いったん教員として働いてから受験する人もあり、同級生でも10歳くらいの年齢差がありました。入学は第2次大戦末期の1944(昭和19)年。同級生が次々と兵隊に取られ、私はぎりぎり免れた世代です。

 敗戦は予想していました。当時、アメリカの鉄鋼の生産量が5000万トンで日本は500万トン。10分の1です。地理学をやっている者からしたら、これで戦争に勝てるわけがないことは明白です。

 その年の11月3日、東京に初空襲がありました。ちょうど学校にいましたが、多分偵察目的でしょう。たいした被害はなかったと思います。次は翌年3月10日。この時は東京の下町がやられて3、4日間燃え続けていました。

 私は45年の1月には東京の府中にある陸軍の燃料本部に学徒動員されました。調布に特攻基地があり、そこに芋アルコールを運搬するのが仕事でした。ガソリンが不足して芋アルコールで飛行機を飛ばしていたのです。この時に自動車の大型運転免許を陸軍から取得しました。しかし戦後免許を更新しなかったため、あの時以来今日まで運転したことがありません。

 昼間は働き夜は講義
 こうして昼間は働きましたが、夜はきちんと講義がありました。陸軍燃料本部内で、夜学みたいなものです。いつ死ぬか分からない状況の中で、地理学だけでなく、いろいろな教科の先生方が大変熱心に講義され、学生も真剣に学んでいました。

 3カ月もすると、今度は運ぶ物さえなくなったというので、学校に戻されました。ところが4月23日の空襲で木造校舎や寄宿舎が燃えてしまいました。それで次は日光の古河精銅へ学徒動員されることになりました。この時には中学4年で入学した私と同年齢以外の者は戦争に行ってしまいましたから、新入生の面倒も、少ない人数でみるほかありませんでした。

 日光での仕事は飛行機のパイプ造りです。この作業中、私は軽いけがをしたため、実家に戻ることになりました。ですから終戦勅語は家のラジオで聞きました。
(聞き書き・北原広子)
(2010年7月10日掲載)

 
市川健夫さん