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11 八十二銀行へ 〜「都落ち」で結構 親父と入れ替えに

11-chino-0116.jpg 大学時代のアルバイトも「社会勉強」になりました。ちょうど友人のお父上が新宿でスマートボールの店を経営していました。パチンコが主流になるにつれてだんだん廃れましたが、当時は人気のゲームだったんです。

 その友人に誘われ、小遣い稼ぎにアルバイトをしました。スマートボールの玉は機械仕掛けで出るんじゃなくて人手。お客さんから「おい」と声が掛かると、私たちアルバイトが飛んで行って玉をゲーム機のガラス蓋の上に出すんですよ。ひっきりなしに玉を握るので指の爪の付け根がささくれてくる。「ここからばい菌が入ったら困るな」と思いながらも、お客さんとの軽い会話が楽しかったです。

不景気で暗い時代
 4、5人ずつ交代で店の裏の部屋で食事をする。うどんに汁をかけて食べながら、出稼ぎの娘さんたちにどうして東京に出て来たのか身の上話を聞いたり、こんなお小遣い程度の給料で暮らせるのか尋ねて「身売りよりはいい」と言われたりね。

 飢えの心配はなくなったとはいえ、まだあちこちに浮浪者を見掛けましたし、学生食堂でおかずが買えずに素飯にしょうゆだけで食べている東大生もいましたよ。そんな一方で警察予備隊など軍備は増える。逆に敗戦直後の自由な空気がなくなってくる。そこへ朝鮮戦争後の不景気。暗い時代でしたね。

 そんな中で私は、どんな職業に就いたらよいか迷っていたところ、4年生の夏休みの帰省で親父から「就職は決まったかや」「まだだ」と言うと「八十二銀行はどうだ」と言われたんです。

 それまで口に出して言われたことはありませんでしたが、男の子が3人もいるんだから、一人くらいは自分と同じ銀行員にしたかったんだと思いますよ。

 父にすると、2人の兄に比べたら私が一番御しやすかったんじゃないでしょうかね。兄たちはマイペースで、例えば囲碁や麻雀もやりたがらず、私が捕まっちゃって教え込まれたわけです。兄は2人とも研究者。化学が専門の上の兄は企業の研究所、生物を専攻した2番目の兄は生物学者になっていましたからね。

 当時、朝鮮戦争後の不景気で東大生でも3割くらいは第一志望先には就職できず、田舎に帰る学生も多かった。これを「都落ち」と言ったんですよ。

 私はといえば「社会勉強」の結果、都会は性に合わない。遊ぶにはいいが長く生活する所ではないと感じていましたので「都落ち」で結構でした。

 八十二銀行は故郷・長野県の一流企業。親父の希望もある。どんな仕事か分からないし、親父のコネで入ったと思われるのは癪でしたが、これも一つの試練かなと、八十二銀行を受験したわけです。

 岡谷支店に40年も親子で同じ銀行にいるわけにはいかないということで、私の入行と入れ替えに父は取締役岡谷支店長を退職しました。親父は40年間も一つの支店にいたことになり、銀行員としてはギネスブックものです。岡谷の製糸業の栄枯盛衰を見てきた歴史の証人でした。それと同時に6人の子ども全員が親の庇護を離れて自立したわけで、感慨もひとしおだったろうと思いますね。
(聞き書き・北原広子)
(2010年1月16日号掲載)
 
茅野實さん