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12 下宿先で書生〜桁が違った豊かさ都市の有産階級

0724Ayumi_ichi12p.jpg 戦争が終わると授業が始まりました。学生寮は燃えてしまいましたが、元松平家の屋敷跡にあった鉄筋校舎は、たくさんの樹木に守られる格好になり、焼失を免れていたのです。軍隊に召集されていた同級生が全員無事に戻ったのは幸いでした。

 私は父の知人宅に「書生」として下宿することになりました。新宿区信濃町にあったこのお宅の当主はニッケル会社の社長さんでした。ここに3年間お世話になり、都市の有産階級の暮らしぶりや考え方を知ることになりました。私の実家は分家に当たり、相当な資産をもらいました。しかし、戦後のインフレや農地改革などで没落を余儀なくされたわけです。都市の有産階級の豊かさは桁違いだと思いました。

 3杯目はそっと出し
 切実な意味で印象的だったのは、ご飯茶わんが田舎のよりも小さいことです。3杯以上お代わりしないと、おなかいっぱいになりません。家計への気遣いは不要とはいえ「居候、3杯目にはそっと出し」の気持ちが、あの時はつくづく分かりました。

 電気冷蔵庫などない時代にアメリカ製の大きな冷蔵庫があり、動物性タンパク質のおかずが多く、当時の庶民の食生活とは懸け離れていました。お隣さんが犬養毅元首相のお宅で、お孫さんの犬養道子さんは20代でした。デートはしませんでしたが、あいさつはよく交わしました。同じ隣組ですから回覧板も届けました。

 下宿先には住み込みのお手伝いさんと、通いの専門の庭師がいました。私もたまにお使いを頼まれ、鶯谷にあるお茶店に抹茶を買いに行ったことを覚えています。別棟のお茶室は京間でした。母屋は東京間ですから、同じ4畳半でも茶室の方が大きいのです。有産階級の文化的志向の高さを感じたものでした。

 それから、このお宅のお孫さんが学習院初等科に入り、運動会について行ったことがあります。「白、お勝ちあそばせ。赤、お勝ちあそばせ」という言葉遣いで応援していたのにはびっくりしました。

 普通の人は貧しい時代ですから、学生もたいていアルバイトをしていました。家庭教師をする人が多かったです。私はアルバイトもせず、各地にフィールドワークに出掛け、余暇には神田に行って古本屋をぶらぶらしたり、本を読んだりでした。

 価値があった奨学金
 1944(昭和19)年当時の高等師範は、成績が上位1割以内だと月20円の奨学金が与えられていました。私はたいていトップグループにいたので、毎月奨学金をもらっていました。なお3食付きの寄宿舎の寮費が15円。長野-上野間の汽車賃が2円90銭。決して安くなかった本も、30円あれば50センチ分くらい買えた時代の20円ですから大変な価値がありました。ところがひどいインフレで、どんどん価値が下がってしまいました。

 成績が良かったので先生からは進学を勧められました。研究者への道です。ただ、弟が東大に進学し、学生2人を養うには、実家の経済状況も芳しくなかったこともあり、卒業後は故郷で教師になる決意をしました。他人の家でやっかいになるのは、もう十分という気持ちもありました。
(聞き書き・北原広子)
(2010年7月24日掲載) 
 
市川健夫さん