
仕事ができないのに、高卒の人と同じ給料がもらえる。申し訳ない気がして、給料にあまり不満はなかったですね。欲を言えば「飲みたいときにビールが飲めたらなあ」とそれだけでした。
須坂支店勤務になった1959(昭和34)年というのは、世界の奇跡といわれた高度経済成長期の入り口に当たります。勢いが出てきた時代で、富士通須坂工場ができた須坂もこのころは大変に活気がありました。
こういう時代の銀行の役割は単純なんですよ。製造業も商業活動も活発なのに、お金が足りないという状況。ですから銀行の中心的な仕事というのは、お金を集めること。集めさえすれば、おなかいっぱいの今とは違い、借り手はいくらでもあるんです。
得意先係として自立できたころに伊勢湾台風が襲来しました。阪神・淡路大震災に次ぐ戦後の大災害だったですね。
材木屋の後を付き
天竜川沿いに台風が上がってきて、長野県もひどい目に遭ったんです。須坂ではリンゴは全滅。家屋に水がついたり、ほかの農作物にも大きな被害が出たほか、山の木が大量に倒れました。風倒木は腐ってしまう前に片付けなくてはならない。それで材木屋さんが買い付けに行くわけです。
地主さんにしたら突然の台風で倒れた木ですから予定外の収入。すぐ使うわけではないと見込んで「ぜひ八十二銀行に預けてください」と回ったわけです。
材木屋さんのトラックの後を、私は原付きバイクで付いて行く。舗装の道なんてないから全身ほこりだらけ。部落の公会堂に着いて、入札が終わると手打ちの茶わん酒です。私は酒は強くなかったんですが、材木屋さんが注いでくれるのを飲まないわけにはいかない。具合が悪くなって、トイレに行くふりをしてゲーゲーと吐く。そしてまた飲まされる。そんなことを繰り返しているうちに何とか1升くらい飲めるようになったんです。その後、この「酒が飲める」ことがずいぶん役に立ちましたね。
下駄箱に恋文入れ
結婚も須坂支店の時でした。私が入行した当時、本店には大勢の女性行員がいました。しばらくして、その中に「かわいいなあ」と思う女性を一人発見しましたが、係が違うので接点がありません。仕方なく、さえないやり方ですが彼女の下駄箱に手紙を入れたんです。
それから2年ほど付き合って結婚したのが、今の「かみさん」で、昨年、金婚式をしました。こういう社内結婚は何組もありましたし、26歳という結婚年齢もちょうど平均くらいでしたね。
かみさんは末っ子で、家は長野市内にありました。上のきょうだい3人は独立して県外にいましたので、私がかみさんの家に滑り込んで両親と4人暮らしになりました。実質、養子みたいな感じですね。私としては住む所さえあればいいんです。翌年、まだ須坂支店にいる時に上の娘が生まれました。
かつて栄えた商店街は今すっかりさびしくなってしまいましたが、須坂は私に八十二銀行員になる決意をさせてくれた思い出深い場所です。
(聞き書き・北原広子)
(2010年1月30日号掲載)
(2010年1月30日号掲載)