
トイレットペーパーが店頭から消えたり、某商社の社長が「千載一遇の好機」と発言してたたかれたり。終戦直後以来の本格的なインフレに突入したんですよ。
急激な物価上昇は1年半くらいで収まったと思いますが、緩慢な上昇がしばらく続いて、結局物価は3倍近くに上がったんじゃないかなあ。私の給料も3倍近くになったはずなんですが、いつも物価の後追いでしたね。
インフレで痛い目に
インフレで得したのはお金を借りていた一部の人たち。痛い目に遭ったのは、金を貸していた銀行はじめ、サラリーマンや地道な商売をしていた大部分の国民というわけですよ。
政府もこれに懲りてか、インフレが収まった後もしばらく「窓口規制」を続けましたね。私は新宿支店のあと本店経理部に異動したんですが、ここでも窓口規制に苦しめられました。
八十二銀行は昔から長野県庁の金庫番ということで、県庁に必要なお金を一手に貸し出していたんですが、県庁への貸し出しは金額が大きいですから、窓口規制による毎月の貸出枠を食ってしまって一般企業への貸し出しができなくなる。これは大変。「長野県の産業に資金を供給する」というのが八十二銀行の最重要使命ですからね。
インフレで税収不足に悩む県庁に、何とか借入額を圧縮してくれるようお願いするんですが、なかなかしんどい交渉でした。融資部の担当者だけでは力不足というので、経理部次長の私が頭の固い勘定奉行の憎まれ役で応援するわけですよ。
定期預金を取り崩すとか支払いを先送りするとか、普通はやりたくないことをやってもらってもまだ足りない。窓口規制がなかった信連(信用農業協同組合連合会)さんにも貸し出しをお願いしました。さらに債券にも規制がなかったので県債の発行をお願いしたんですが、貸出金利より債券金利の方が高いですから、これも簡単にはいかない。それでも何とか「長野県の産業のため」と県にはご理解をいただき、窓口規制を切り抜けましたね。
皮肉な県庁内支店長
間もなく、憎まれ役だった私が県庁内支店長にさせられました。皮肉っぽい人事だと思いませんか。県庁の方々からは歓迎されないし、支店長職は初めてでしたから、周囲に助けてくれる人がいない孤独の重圧に耐えられるか。それに当時の西沢知事をはじめ、副知事、出納長ら雲の上の方々とお付き合いができるのか。私は全く自信がなく、挫折を覚悟して赴任しましたね。
ところが、仕事の上では一番接触の多い出納長さんと財政課長さんが、窓口規制に苦しむ八十二銀行の窮状を理解しておられ、何くれと私にアドバイスをしてくれたんですよ。特に出納長さんは碁がお好きで、赴任早々から一局打ちながら役人や議員との付き合い方のイロハを教えてくれました。私も変節して、県庁の側に立って八十二銀行との交渉に当たったんですよ。
(聞き書き・北原広子)
(2010年2月20日掲載)
(2010年2月20日掲載)