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18 東京事務所長〜裏の世界とも折衝 初代資金証券部長に

18-chino-0306.jpg 県庁内支店長の次に東京事務所長を命じられました。仕事は監督官庁の大蔵省や日銀の情報収集。それから銀行間のお付き合いの下ごしらえ。役員の上京中の秘書。総会屋など裏の世界との折衝。そのほか、東京ならではの雑務でした。決定権はないですが、やろうと思えば切りがない。私のようなズクなしには向かない仕事でしたね。

 総会屋というのは、企業の総会担当者の弱さや抱えるトラブルなどから攻撃目標を絞り込む。その上で、攻撃する総会屋と丸く収める総会屋が手を組んで、マッチ・ポンプをやるんです。企業は仕方なく金を払って丸く収めてもらうという仕掛けですよ。こんなことが長く続いたのは、何事も丸く収めようとする企業側の姿勢からだったと思いますね。

我慢ならぬ総会屋
 私は、銀行の利益はお取引先や大勢の職員が、爪に灯をともすようにして稼いだものと思っていたので、そんなお金を総会屋に払わされるのが我慢できず、役員と相談して総会屋への金を圧縮することにしました。私を含め圧縮交渉の担当者に心労はありましたが、結局、担当者の人件費くらいは節約できましたね。

 優良な取引先が、ある暴力団に絡まれたんですよ。彼らはメーンバンクの八十二銀行の方が金を取りやすいと思ったのでしょう。初めは子分が事務所へ様子を見に来ましたが、そのうちに私が若頭(会社でいえば常務クラス)に会うことになりました。おどおどしましたが、そのうちに先方のしきたりや心情が分かって怖くなくなりましたね。その秘訣は、暴力団を意識して怯えたり毛嫌いしてはいけない。お取引先に対するのと同じように、敬意を払って接することでした。4、5カ月後、事件は金を払わずに収まりました。

難しかった株の売買
 石油価格が安定すると、日本経済は再び貿易黒字による金余りになりました。八十二銀行も貸し出しだけでは資金を運用し切れず、証券運用に力を入れようと、「資金証券部」をつくり、私が初代の部長になりました。

 私は、株の売買とは何ぞやが知りたくて、当時銀行員は株をやってはいけないというムードでしたが、わずかな貯金でやっていました。それに、数年前経理部にいた時の経験から、株の売買などの相場取引は、厳に引当金の範囲内でやること。さらに「相場勘」という、銀行員にはないセンスが必要だなと思っていたんです。証券売買をやるんならベテランを雇わなくてはなりませんが、そこまではやらないことになりました。

 戦後は4、5年の周期で好・不況が繰り返され、相場はほぼこれに連動して上下しますから、下がった不況時に買い、上がった好況時に売る。これなら景気が読める銀行員にもできますね。ただし買ってから売るまで、売ってから買うまで「お休み」をしなければなりません。この「お休み」が銀行員には難しい。出勤して席に着くと何か仕事をしたくなって、もうかったり損したり。結局、休んでいるのと同じになるんですね。

 そんなわけで、慣れない証券売買よりも、金利は低くても安全な債券や、売買しない株式に投資する堅実運用に落ち着きましたね。
(聞き書き・北原広子)
(2010年3月6日号掲載)
 
茅野實さん