記事カテゴリ:

19 常務・副頭取〜バブル崩壊に先手 頭取前提のご指名

19-chino-0313.jpg 八十二銀行は、第十九銀行と六十三銀行が合併し、合計数字の八十二を行名にして1931(昭和6)年に誕生しました。以来、頭取には両行の閨閥(けいばつ)の方々が就任しており、まさか私が頭取になるなんて考えもしませんでした。本部からの指示が気に入らないと「俺が頭取だったらこうしてやる」なんて冗談は飛ばしていましたがね。

 東京事務所長の後、資金証券部長になり、次の上田支店長時代に取締役に就任したんですが、銀行の経営に参画するようになったのは常務取締役になった89(平成元)年からですね。東京駐在で国際部長を兼ねていて、何度も海外に出張していました。

米国の状況見て直感
 一番はニューヨーク。アメリカでは80年の金融自由化以来のバブル崩壊が起こり、国際部は大きな損失を出していました。その主なものは、企業自体にではなく、企業がもくろむ投資計画に対する融資。金利は高いがリスクも大きい担保力の弱い貸し出しの破綻でした。「この分を長野県で使っていたら県民がどれくらい喜んだか」と、つくづく思いましたよ。

 アメリカのバブルのはじけ方を見て「やばいな、これは日本にも来るな」と直感しました。ところが日本ではまだバブルの真っ最中で、政府も手を打たない。アメリカでは不動産投資などが破綻して、その影響が地方銀行にも及んでいる状況を伝えて「危ない貸出金は引き上げろ」と命じたんですよ。「まだみんなが貸したがっているうちにやらないと、引き上げられなくなる」と涙をのんでやりました。

 ちょうどこんな騒ぎのころ、私は小林春男会長に呼ばれ、「副頭取になれ」と言われたんです。当時、副頭取だった小出久さんが急に辞めることになってしまってね。びっくりしたのはその条件。「副頭取になれってことは頭取にもなるってことだ」と言われました。

 副頭取ならともかく、頭取は大変。それに歴代の頭取は皆さん紳士なんですよ。代々引き継がれてきた閨閥という権威もあります。何の権威もない、とても紳士になれない私に、5000人の職員を率いて長野県の産業を支えていくリーダーシップが取れるのか。全く自信がありませんでした。

固辞したがしかられ
 私は何度も固辞しましたが、ある日「おまえがやるべきだ」と、しかられちゃいました。おまえは、八十二銀行で苦労な時代にやってきた親父さんの息子なんだ。そもそも八十二銀行は合併後、大変な苦労をして、黒沢利重さんという頭取は過労で48歳かそこらで早死にしたくらい努力したんだ。おまえは2代にわたって、その銀行に世話になった恩に報いないのか-と。そのような意味のことを言われましてね。私は小林会長の強い決意に打たれてしまい「はい、分かりました」と。

 副頭取になったのは、冬季オリンピックが長野市に決まった1991年。ちょうどその年にバブルがはじけました。八十二銀行は早めに手を打っていたため、他行の半分くらいの損失で済みました。それでも被害は大きかった。あの時、私は「八十二銀行の常務でも気付くことを、なぜ大蔵省も日銀も気付かないんだ」と怒りましたよ。こんな船出の私が副頭取と頭取をしていた間には実にいろいろなことがありました。
(聞き書き・北原広子)
(2010年3月13日掲載)
 
茅野實さん