
疎開というんじゃないですね。食べ物がなかったから「口減らし」ですよ。岡谷より先に上田の空をアメリカの戦闘機が飛んでいましたから、疎開っていうのは安全な所へ行くのに逆なんです。
初めて親元を離れ
親父の兄が跡を取っていた上田の家は、蚕種製造と農業ですから、食べる物はありました。それに、親父に連れられて何度も行っていたので、1級下のいとこの弘ちゃんとは遊び友達。「弘ちゃんと遊べる」くらいの気持ちでした。私が小学校6年で妹が3年の時です。
上田で過ごしたのは5カ月くらいなもので、近い親せきですし、困ったことがあったとか転校先でいじめられたとか、現象面で何かがあったわけではありません。だが、初めて親元を離れた経験というのは、精神的には非常に大きな出来事でした。
そのころの親は、子どもにかまけている余裕などありません。親父に遊んでもらったことなんて一度もありませんし、母は家事だけで大忙し。けがでもして泣いていれば、赤チンを塗ってくれるくらいの世話しかしてもらえません。だから昔の子の方が独立心はあったと思います。
それでも、親元を離れてみると、親には甘えていたんだということを感じましたね。親元に戻ってから、自覚はなかったけど上田の家では緊張していたなあ、と思ったものです。
私には遊び相手の弘ちゃんがいて、1里(4キロ)近くあった学校と家の間の道草も楽しく、何より腹いっぱい食べられることがうれしくて、特に岡谷に帰りたいとは思いませんでした。ところが、妹ははしゃぎまくって遊ぶような友達がなく、寂しかったんでしょうね。帰りたいと言い出して、それでまだ食糧事情が好転したわけでもないのに、終戦後すぐに岡谷に戻ることになったんです。
後になって妹が「あの時は寂しかった」というようなことをちょっと言いました。もっと面倒みるべきだった、と少々反省しました。
上田で通ったのは農村地帯の神科小学校です。お弁当を持ってこられない子はクラスにいなかったと思いますね。岡谷の学校とは違いました。
大変だった長男の嫁
上田の家で子ども心にも感じたのは、長男のお嫁さんの大変さです。家業の蚕種製造の手伝いをして農業をやって、大家族のための家事。自分の子だけで5人も6人もいるのに、私と妹が増えた。今のお母さんならうつ病になっちゃうかもしれないですね。
お嫁さんの働きづめの様子を見ていて子ども心にもご苦労で「俺、こんなに飯食っていいのかな...」と思ったものです。そのお嫁さんに毎日お弁当も持たせてもらい、腹いっぱい食べることができました。
父の家は上田市といっても郊外です。だから市街地上空を飛ぶ戦闘機(グラマン)が遠くに見えるわけです。それで土蔵の屋根に上って「来てる、来てる」と手を振ったりしてね。「そんな所に上っていると撃たれるぞ」と怒られて。もう半年も戦争が続いていたら、岡谷も上田も空爆でやられていたかもしれません。
(聞き書き・北原広子)
(2009年11月21日掲載)