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23 田中氏擁立〜県政を変える好機 大騒ぎで「座敷牢」に

23-chino-0410.jpg 権力の座に一人が長く座っていると、本人にその気がなくても組織はその人好みのなれ合いファミリーになって、一般の人が近づきにくくなるんです。5期20年続いた吉村県政も、特に5期目にこの傾向が顕著になりましたね。土建色が一層濃くなり、無風選挙の連続で一般県民に疎外感が広まりました。民主主義の衰退ですよ。

 世紀の節目2000年に吉村知事が勇退することになって、県政を変える絶好のチャンスが来ました。うれしかったですね。ところが、県政をファミリー化、土建化した張本人の池田典隆副知事が、最有力候補として立候補したんです。

行内外からの非難覚悟
 私は、県政民主化のために池田氏だけは当選させてはならないと決心しました。「銀行員は政治に口を出すな」という行内・外からの非難を覚悟して、志ある方に立候補を懇願しました。しかし組織票が池田氏側に押さえられているためか、火中の栗を拾う人が見つからない。投票日は迫ってくる。そんな時、「田中康夫さんに会ってください」と言われたんですよ。

 田中さんのことは全然知りませんでしたが、「阪神淡路大震災の後1年間も、50ccのバイクに乗って困った人を助けた」と言うではありませんか。そんなすごい人がいるのかと、当時長野商工会議所会頭の仁科恵敏さんと切り絵作家の柳沢京子さんの3人で会いました。

 この人は行動力があると思ったので、私は田中さんに「お上手は言わない。あなたは落選します。しかし無風選挙はやりたくない。長野県の民主主義のために立ち上がってください」とお願いしました。2週間後に「私、やります」という電話があり、「やったあ!」と思いましたね。

 たちまち私の名前が表に出て、銀行の頭取が選挙にかかわる、しかも難しい選挙に、ということで報道陣が押し掛けてきました。私は覚悟していましたが、何も知らない役職員は大騒ぎ。街宣車は来るし、お取引先から「変な頭取だ」と言われて受け答えに困ってしまいました。これは私個人が一長野県民としてやっていること。銀行には一切関係ないと言ったんですが、役員全員から「風当たりが強いから外に出ないでください」と言われ、私は「座敷牢」に入れられたわけです。

 それでも、私の行動に賛同する八十二関係者がOB主体の応援団をつくって、くじけそうになる私を陰に陽に支えてくれましたね。

選挙戦の最後に檄
 表立った活動はできませんでしたが、マスコミの取材には応じて、私の「田中氏支援」が広く伝わり、少しは役に立っていると思いました。ところが「八十二の頭取は降りた」といううわさを聞いてびっくり。いつも困ったときに出てくるもう一人の私が現れて、「仁科さんや柳沢さんが必死に戦っているのに座敷牢にいていいのか、それでも男か」と尻を蹴飛ばされました。仕方なく牢を抜け出し、選挙戦最後の集会場へ行きました。会場は熱気にあふれていて、私はたちまちマスコミに見つかり壇上に押し上げられ、何が何だか分からないうちに、ガッツポーズでつばを飛ばしながら「長野県を変えるのは田中さんだ」と叫んでいました。数日後、田中さんが当選したわけです。
(聞き書き・北原広子)
(2010年4月10日掲載)

 
茅野實さん