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24 田中氏降ろし〜壊すのみで創らず 忠告無視で意見広告

24-chino-0417.jpg 田中康夫さんの当選で記者団から感想を聞かれ、彼は「民主主義の目覚まし時計」だという言葉がとっさに出てきました。この言葉は一時はやりましたね。 私がどんな人か知らない田中さんを推したのは、20年間も続いてきた無風選挙を、争点のある民主的な選挙に変えること。それと、池田ファミリー化した県政を、みんなの県政に変えることでした。

 県民に不満が募っていることは私も察していましたが、まさか田中さんが初挑戦で当選するとは思いませんでした。私の予想よりも県民はずっと賢かったんですね。

非難と声援が半ば
 私が田中さんを推したため、八十二銀行の預金が減っているといううわさに「長野県人ではないが預金する」と言ってきてくれた人もいましたよ。北海道や九州からも。私には「バカ、死んじまえ」のような非難と、「頑張れ」という声援が同じくらい寄せられましたね。

 田中さんについては、おかしいなあ、と感じることはいろいろありましたが、それでも2回目の選挙までは何とかやっていると思いました。

 田中さんの功績は、選挙で県政が変えられることを県民に示したこと。県職員の姿勢を、官尊民卑から県民主権に変えさせたこと。それに、従来のなれ合いや癒着を徹底的に壊したことです。

 しかし私は、「壊し」のやり方に冷酷さを感じ、2回目の選挙では「壊しは済んだ。これからは創るをやってほしい」と便せん20枚くらいの手紙を送ったんですよ。するとマニフェストみたいなのを作った。そういうことは上手ですね。

 ところが選挙に圧勝するや、人の意見に耳を貸さない。言行が不一致で指示はくるくる変わる。好きなことはマスコミ受け。これを「県民益」と称して熱心にやる。メールを使って気に入らない職員をすぐに遠ざける。県庁は猜疑と投げやりの空気になっていきましたね。

 私はたまりかねて、仁科さんと二人で何度も田中さんに忠告しましたが聞いてくれない。ついに公開の意見書をぶつけたんですが、これも無視されました。大勢から「どうしてあんな人を推したんだ」と難詰され、「分かった。次は降ろす方をやる」となったわけです。ですから3回目の選挙は、頭取を退いていたこともあって気軽に動きましたよ。仲間と「田中康夫の虚像と実像」という小冊誌を作り、村井さん支援の女性グループをつくってもらったり、電話作戦やビラ配りもしました。

落とす選挙を2回
 ところが田中氏への支持は根強く、マスコミも田中氏の方が売れるらしくて、頭取の肩書のない私には取材に来ない。最後の手段で信濃毎日新聞に意見広告を出したんです。ふつう意見広告はあまり読まれないのに、田中氏が広告に反論したものだから、大勢の人がそんな広告どこに載ったかと探して読んでくれましたね。私は選挙違反の疑いで告発されましたが不起訴になりました。

 田中氏は「公」の意識のない、自己中心の独裁者のような人でした。それに選挙ではマスコミの力は絶大でしたね。私は、人を「落選させる選挙」を2回やったわけで、銀行員としては希有な勉強をさせていただきました。八十二銀行も最後は大目に見てくれましたね。
(聞き書き・北原広子)
(2010年4月17日掲載)
 
茅野實さん