
現在は城山公園となり、桜花のころは市民の憩いの場となっている。
山頂の本丸跡には健御名方富命彦神別神社の社殿が建ち、掘割の道路を挟んで南方の曲輪跡には城山公民館が建っている。少し下って萬佳亭の周辺まで曲輪跡らしき遺構が確認される。これらが横山城の基幹を形成していたものと思われる。
本丸の社殿北側には土塁の遺構とケヤキの古木が林立しており、わずかに古城の姿をとどめている。
築城年、城主などの詳細は不明だが、戦国期に武田氏の信濃侵攻に抵抗していたころ、小市を本拠とする小田切氏に付いていた武将に横山氏の名前が見られるので当城と関連があるものと思われる。
北信濃が舞台となった甲越の戦いは5回あったといわれている。3回目の1556(弘治2)年、武田軍の北信濃侵攻の報に接した上杉謙信が善光寺平に進出したとき、横山城を本営にしたという。このときは千曲川を挟んで対峙したが、武田軍が直戦を避けたため小競り合いで終わった。雌雄を決する4回目の川中島の戦いまでは、この後5年を費やすことになる。
武田軍の侵攻を阻止するため、その時々において信濃に出兵した上杉軍にとって、横山城は重要な使命を果たしていたといえる。
戦国時代、集落の焼き討ちなどは日常茶飯事であったが、隣接する善光寺は無事に戦国期を通り過ぎた。
現在の本堂は1707(宝永4)年の建立で、創建以来12回目の造営-と記録にあるので、幾世紀もの変遷の中で紆余曲折があったものの、戦火によって焼失したという記録は残されていない。仲見世通りの三門の角の立て札には源頼朝「駒返り橋」と書かれており、1197(建久8)年に頼朝が善光寺に詣でたことが記されている。
戦乱の時代であっても社寺には崇敬の念を深くし、善光寺が大切に保護されてきた証しでもある。
(2009年7月4日号掲載)
写真=健御名方富命彦神別神社が立つ本丸跡