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02 己を持して先賢に学ぶ

 人生末期のその時がやってきたとき、枕辺の人に手を差し伸べて、「ありがとう」と握手して逝ったという話を聞く。まことに羨むべき人生の総決算だ。ご立派というほかはない。

 病状の故に、そう願っていても、それを果たせない人もいる。悶絶だってあるのだ。お気の毒というほかはないが思うようにいかないのが人の世の常だ。諸家の言葉を聞こう。

 親鸞といえども
 「年齢に不足はないが、だからといって死にたいってものじゃないさ」。捨て鉢な発言ではなさそうだ。むしろ誰にもいえる平均的な願いであり、正直な心のうちの吐露であると思う。

 親鸞上人は次のように語っている。

 なごりおしくおもへども、娑婆の縁つきて、
 ちからなくしてをはるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり    (歎異抄)

 「かの土」はあの世のことをいう。「なごりおしく」といい、「ちからなくしておわるとき」という。人生の大先達、高徳の親鸞でさえそうだったのか、ましてやわれわれ凡人はと思い、ホッとする。救われるのである。

 最近亡くなった小説『挽歌』の作者、原田康子は「死ぬという大切な仕事」が残されていると語る。

 江戸後期の狂歌師、大田南畝は

 今までは他人(ひと)が死ぬとは思ひしが
 俺が死ぬとはこいつぁたまらん

と、笑わせながらも心のうちをえぐってみせる。大方はそんな思いで日々を過ごしているのではなかろうか。

 じたばたせず
 いつ死ぬかなんてことは、自分にだって分からないことだ。いや分からなくていいのだ。受け入れ態勢ができていないのに、分かっていたらいたたまれないことになる。また年齢順に死ぬわけでもない。もし年齢順だということにでもなれば、パニックを招きかねない。

 どんな形にせよ、老いの先には招かざる、死にたくない死がある。恐怖におびえ懊悩の日々に明け暮れることのある方が、まっとうであろう。己を持して先賢に倣い、愚直に生きて生きて生き抜けば、道は自ずから拓けることであろう。じたばたせず、死を静かに迎えられること、それが死の受容である。

 剣聖であり水墨画をよくし、『五輪書』を著すなど哲人の風格を備えた宮本武蔵は、決戦を前にして、

 仏神は貴しといへども仏神をたのまず、勝たせたまへ

 と言ったという。自らへの祈りというべきか。高度に磨き上げられた受容の精神がそこにある。

 親鸞上人の

 たとひ法然上人にすかされまひらせて
 念仏して地獄におちたりとも
 さらに後悔すべからずさふらふ    (歎異抄)

は、正に信心決定、死を受容している極致ともいうべきか。
(2010年1月23日掲載)