
室町幕府による中央集権の支配が次第に固まりつつあるころのことである。守護職である小笠原氏の権勢が高まってきたことに対し、東北信の土豪たちが一斉に蜂起し、守護反抗の兵を挙げたのであった。最初に挙兵した村上満信の下に集まったのは佐久、小県、北信濃の土豪たちで、現在の篠ノ井大当の周辺が戦場になった。
地元の土豪たちが蜂起したこの戦いは「大文字一揆」「大塔の戦い」などと呼ばれ、中世の信濃の歴史の一コマを占めている。
結局、守護側が敗北し、小笠原氏を京へ追い返してしまった。
この一揆に参加した信濃武士たちが謀議した場所が同城といわれており、信濃の中世に起こった大事件がこの窪寺城から始まったといえる。
富士の塔山から南東に延びた支脈の尾根筋に城跡があった。安茂里地区内にある正覚寺と西蓮寺をつなぐ道沿いに城跡の案内板がある。
果樹園の中から歩道が始まり、10分程度で城跡に着くが、城内は野バラ、灌木、葛つるなどに阻まれ、やむなく南方に回り尾根筋から本丸を目指す。
本丸跡は30×20メートル程度の平地で、北方に向かって数段の曲輪跡が認められる。城域は比較的狭く、安茂里集落との比高が少ないことから要害堅固の山城とは思えない。
城主は安茂里周辺を支配した窪寺氏である。
戦国期に入って隣接する小市の小田切氏に追われたため一族は離散したが、一族の中には甲府に逃れて武田氏に仕官した者がいたという。
帰路の途中、歩道脇からいきなり、すさまじい羽音を立てて3羽の雉が飛び立った。富士川の戦いで水鳥の羽音に驚き敗走した平家の話は、まんざら架空ではないと思うほどの迫力を感じた。
(2009年7月11日号掲載)
写真=安茂里周辺を支配した窪寺氏の城跡