
傾斜の緩やかな南方は数段の曲輪で守備し、北方は急峻な斜面となっているので自然の地形を利用した要害城と言える。古城に立つと松風の音ならぬ上信越自動車道の騒音が間断なく聞こえ、戦場にいるがごとき錯覚を受けた。現代文明は容赦なくこの奥地まで侵略しようとしており、早々に下山の途に就いた。
戦国時代、若宮城は旧三水村を中心に野尻湖から旧豊田村の一部まで支配していた芋川氏の山城であった。
1598(慶長3)年、信濃の土豪らと共に上杉氏の会津移封に従って当地を離れた芋川氏だが、その子孫たちが重大な事件を引き起こすことになる。
江戸時代中期、米沢藩の財政が逼迫し困窮状態にあった時、上杉鷹山公が第10代藩主となった。青年鷹山公は各種行事や華美の制限、木綿の着用、食事は一汁一菜など徹底した倹約令を出して出費を抑えた。
その一方で、田畑の開墾、養蚕と織物、鯉の養殖、和紙、一刀彫など産業の振興を図る行財政改革を断行したのである。
ところが、急激な改革に反対した重臣七家が連座して公に改革の撤回を迫った事件が勃発したのである。重臣となっていた信濃出身の芋川(飯綱町)、須田(須坂市)、清野(松代)、平林(信更)氏らがその中心にあったので、事件後、前者2人は切腹、後者2人は隠居、閉門などの処分を受けた。
結局、鷹山公一代で改革を成功させ、米沢藩を立て直した業績は広く人々にたたえられている。
なせばなる なさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり
偉業を成し遂げた鷹山公の遺訓である。
(2009年8月1日号掲載)
写真=老松に囲まれた本丸跡