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04 「愚痴」を語らない

 死を語ることは、生を語ることだという。その通りだと思う。雪の飯山の正受庵に住した恵端禅師(正受老人)のことばに、

 一大事と申すは今日
 只今の事也

がある。特別な方法や奇策があるわけではない。目の前にある今日という日、今という時を地道に、大事に、志を持って生きるしかないのだ。

 ありがとう もう おこすな
 「生ききった」向こうには「死にたくない死」ではなく、「最早これまで、まあ、これで良しとするか。さようなら」という死があるのだろう。素晴らしい最期だ。こんな短歌がある。

 「ありがとう もう おこすな」とつぶやきて
 舅は眠りたり ほの白き夜明け (森田 恵)

 嫁と舅との、尽くし尽くされた羨むべきかかわりが見えてくる。舅は病床にあって末期を悟ったのであろう。人生の総決算として「よくやってもらった。ほんとにありがたい。もう何も言い残すことはない」とつぶやき、安心立命の心境に立ち至って、永遠の眠りについたというのである。

 「もうおこすな」には、あきらめでなく、深い安堵感が漂う。夜が白白と明け初めたとき、そこに安らかな死があったのである。嫁と舅のそれぞれの立場での幸せもまた、そこにある。

 高年齢であっても元気で前向きで、志高く活動している方がおられる。単に達者というだけでなく、オーラさえ漂わせ、生活年齢を超えて精神年齢にこそ思いをいたさざるを得ない人に、まぶしい思いをもってお会いすることがある。私も「年をとったら、あのばあちゃん(じいちゃん)のようになりたい。お手本にしている」という話もよく聞く。

 愚痴を語るのか
 希望を語るのか
 さて、高齢で、元気で、志高き人々には、ある共通点があるのだという。一口で言えば「愚痴っぽくない」のだそうだ。自分の殻から出られず、周りを見る余裕がなく、あれが駄目だ、これがいけないというような不平不満がないというのである。昨日は昨日、今日は今日と決断が早く、愚図愚図していないのである。

 男が80歳、女が85歳-。これは寿命が尽きるときでなく、平均寿命の数字だ。80、85で「もう年なんだから」などと老け込んではいられない。バリバリの現役とは言えないまでも、あれこれ叶えられる可能性は十分にあるのだ。「頑張りましょう」と言うほかはない。

 「馬齢を重ねる」という言葉もあるが、年をとっても「ああいうじいさん(ばあさん)にだけはなりたくない」と自分に言い聞かせながら語るのを聞くこともまた、しばしばである。

 日ごろ、敬愛しているお二人からこんな賀状を頂いた。自分の言葉ではなく、拝借したものである由であるが、自分の生き方として咀嚼しきっている。

 今年の目標
 三毒追放...愚痴、嫌み、妬みみを口にしないこと。(春日井市 Iさん)

 老いと孤独を味方につけて、その裏側にある寂しさを満喫して居ります。(菅平 Nさん)
(2010年2月27日)