
翌朝これを見つけた長野警察署は警戒を厳重にして巡査を城山公園に派遣しました。
それは真夏の暑い夜のことでした。米価高騰に悩んでいた長野市民は、夕涼みがてらに物好きも加わって城山公園に押し掛けました。
午後10時には、集まった市民の数は膨れ上がって約1000人にもなったといわれています。首謀者の長田豊酢(「北信毎日新聞」通信員)は、音楽堂の前に群がった群衆に向かって次のような演説をしました。
「諸君! 米価が全国で一番高いのはこの長野市である。内地米1升42〜43銭を35銭に、外米24〜25銭を21銭に引き下げるのが当たり前だ。これを、この市民大会の決議にして新聞に発表し、米屋を反省させようではないか」
続いて職人風の男が壇上に駆け上って「今こそ、みんなで米屋に押し掛けようではないか」と直接行動を訴えました。
さらに段ボール箱製造業者の五十嵐寿命雄が演説して「米の安売り費を市税から出すなどはとんでもないことだ。資本家、市長、市会議員らを訪問して寄付を頼もうではないか」と、これも直接行動を訴えました。
すると民衆はときの声を上げて公園から町に出て、牧野市長宅を目指したのです。その数は数百人にもなりました。巡査部長が群衆を市長宅と反対方向へ誘導したため、今度は元善町を下って警察署を取り囲んで投石しました。
その後、群衆は翌18日未明にかけて権堂の谷屋、西後町の浪屋などの米屋を皮切りに、南石堂町、伊勢町など手当たり次第に20数軒を襲って米の安売りを強要したのです。格子戸をたたき、板塀を倒しての投石が繰り返されました。
あまりの出来事に米屋の家族などには知人や親戚宅に避難する者もありました。そこで米屋は1升25銭売りの張り紙を出したので、明け方になって民衆は解散しました。
18日の早朝6時ごろには、早くも子どもを背負った母親や労働者たちを中心とする貧しい人々が米の安売りを求めて米屋の戸をたたき、約束どおり1升25銭の米を手にしました。
この夜も城山公園には300人ほどの市民が集まり、多数の警官によって解散させられ、松本歩兵第50連隊の兵100人ほどが応援に駆け付けたころには平静になっていました。
〈長野市の米騒動の結末-送検56人(内4人が予審)、新聞記者2人が懲役2年、五十嵐同1年、22人が罰金刑〉
(2010年8月7日号掲載)
04 米騒動の市長宅襲撃回避
写真:米価引き下げの市民大会を報じる記事
(1918年8月19日付信濃毎日新聞)