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04 春山城大城(若穂)〜太郎山北の尾根に天険の地形を利用

04-yamajiro0808.jpg 若穂綿内地区の春山集落の東方に「城の峰」と呼ばれる小峰があり、戦国期の古文書に「綿内要害」として登場する春山城跡がある。

 標高997メートルの太郎山から北方に延びた尾根の途中に築城したものである。太郎山から四方に延びた支脈の尾根筋には霜台城、小出城などがあった。井上氏の本拠地である須坂市井上から若穂綿内、若穂川田にかけては複数の山城跡があり、戦国期には小豪族が割拠していた。

 春山城へは天王山口から城跡を経て太郎山へのトレッキングコースがある。ほかには蓮台寺から北方の峰筋を迂回するコースがあり、こちらも推奨したいコースである。
 重文の仏像、しだれ桜、あじさい寺としても知られる蓮台寺から杉林、雑木林を経て約40分で城跡に着く。

 本丸の北端には物見台跡と思われる土盛りと、東方に深い堀切と帯曲輪の遺構が認められる。本丸から500メートル後背に小城を擁する連郭式山城で、春山集落からの比高は400メートル。天険の地形を利用した堅固な山城である。

 この城は戦国期の天文年間に富永伯耆守の築城という説があり、城主は富永氏のほかに綿内満行、小坂義遠らの名が見られるが詳細は不明である。

 戦国期に入ってからは、井上本家から分かれた綿内井上氏が城主で、1556(弘治2)年の武田軍の侵攻により、綿内井上氏は武田氏の傘下に入った。

 この時、井上本家は上杉氏を頼りこの地を去ったが、武田氏滅亡後、川中島4郡は上杉氏の支配となった。井上本家は旧領を安堵され、綿内井上氏は滅亡してしまった。

 綿内井上氏の居館跡といわれる場所が、森区公民館の脇にあり、約200メートルに及ぶ水堀跡の遺構が認められる。

 居館跡に隣接する小内神社の境内にはケヤキの保存樹林があり、一見に値する。真夏の太陽の季節には日差しを遮り、涼風が肌に染み込む。
(2009年8月8日号掲載)

写真=山頂部が春山城大城(小城跡より)