
城跡へは堀之内集落からの北尾根、満龍寺脇からの西尾根、蓮生寺から尾根筋を登る3コースがある。急坂だが、最も明瞭な満龍寺から城跡を目指す。
葛飾北斎、高井鴻山が寄進したという薬師堂を過ぎると、小柴につかまりながらの急登となる。尾根筋の登山道まで30分。さらに、天狗岩まで20分。北尾根ルートと合流して天狗岩から城跡まで50分を要した。
大岩の城名どおり尾根筋に大岩がたちふさがっており、麓の本郷町集落との高い標高差を考慮すると天険の山城といえる。東西の尾根筋は150メートル、南北に200メートルの広大な城域を持つという。曲輪跡の平地は5カ所。それぞれの曲輪を深い堀切で防護していた。
鎌倉時代の築城と標識にあるが、大岩城が文献に登場するのは室町時代になってからという。須坂市井上の井上氏から分かれた一派が臥竜山に須田城を築き、須田氏を名乗って須田郷を治めた。その後、室町時代に須田郷の分割相続がされ、大岩城に拠って大岩郷を治めた須田氏が出現したのである。
戦国期に入って臥竜山須田氏は須田信正、大岩須田氏は須田満国、満親である。武田信玄の信濃侵攻が北信濃に及んでくると、臥竜山須田氏は武田氏に下り、大岩須田氏は上杉氏を頼って越後に逃れたのであった。
しかし、武田氏が滅亡すると臥竜山須田氏は失脚し、大岩城の須田満親は上杉氏から北信4郡の仕置きを任されて海津城将となった。
上杉氏の会津移封には満親の子息が従い、上杉氏の重臣となったが、その子孫は上杉鷹山公の藩政改革に抵抗したため切腹、家名断絶に処せられてしまった。
大岩須田氏の居館があったという蓮生寺の境内には杉の巨木が立ち、往時を物語っているようである。
(2009年9月19日号掲載)
写真=須田氏の居館があった蓮生寺