
本丸の間近まで家屋が立っているので、多くの遺構が消滅したものと考えられる。本丸は高さ十数メートルの台地上にあり、不整形の菱形状を呈している。急崖の北側を除き、南西の両辺には高さ数メートルの土塁の遺構があり、中央には八幡社が祀られている。本丸周辺にはケヤキの巨木が残り、世間から置き去りにされた古城といった風情を感じさせる。
東信に勢力を持った滋野氏の一族である望月氏の子孫が布施の地頭となったが、応仁年間に相続争いがあり、布施氏の長子が上尾城を居城とし、平林を名乗ったのが始まり。
戦国期の城主は平林正家と正恒。村上氏に付いていたが、後に武田氏の配下となり、牧之島城の副将にもなった。武田氏が没落すると上杉氏に付き、会津移封に従った。会津では白河小峯城で2000石を所領したという。
白河城は石垣が有名で、盛岡城、会津若松城とともに東北3名城の一つといわれる。現在の白河城は江戸時代になって丹羽氏によって築城されたもので、平林氏はその前身の小峯城と呼ばれたころの城主となった。
その後、米沢に移封となったが、寛永の分限帳には「平林右近一千石」とあり、信濃出身者では清野氏、芋川氏に次ぐ高禄を得ている。しかし、江戸時代中期に至り、上杉鷹山公の質素節約を旨とした行財政改革に反対した七家騒動が勃発。改革に抵抗した平林氏は隠居、閉門、知行300石召し上げの処分を受けてしまった。
(2009年10月24日号掲載)
写真=上尾城跡の森と上尾集落