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08 竹山城(松代町)〜眺望抜群 象山山頂に築く

08-yamajiro-0109.jpg 松代町の西方に位置する象山の山頂に築かれた山城である。真田氏が松代移封後に竹を植えたので、竹山とも呼ばれている。

 象山神社の駐車場を借用し、旧象山邸に沿って裏竹山町の小路を西方に進むと「集いの広場」へ通じる登山口がある。市水道局の配水池、集いの広場を経て本丸跡までの所要時間は30分程度。眼前には尼巌、寺尾、金井山などの城塞群や善光寺平を囲む里山の山容などが視界に入り、眺望は抜群に良い。

 この城は、隣接する清野に本拠を置いた清野氏の一族である西条氏の要害城というのが通説である。清野氏が比較的早期に武田氏に下ったため、西条氏も共にしたものと推察されるが、武田氏の支配になってからは海津城防衛の一翼を担っていたと思われる。武田氏滅亡後は上杉氏の家臣となり、会津、米沢に移住し、寛永の米沢藩分限帳によると西条志摩守は600石の高禄を得ている。

 帰路は東方の表組地区を目指して下山したが、途中、天然記念物に指定されている「象山のかしわの木」に出合う。目通り周囲4.3メートル、樹高13メートル、樹齢は400年程度と書かれている。カシワは陽樹であるから、南斜面の陽光を受けて巨木になったものであろう。

 下山した場所は戦時中、政府機関の移転先にするため掘削したという地下壕","ごう">脇であった。

 神田川に沿って歴史の道・竹山通りを歩き、山寺常山旧宅を見学してから象山神社に戻る。境内の「高義亭」「煙雨亭」などの象山旧宅跡を見聞したが、高義亭は象山が居住した建物を移築したと書かれている。ペリー来航の折、吉田松陰の密航を援助したことで松代藩に幽閉されたころ、松代を訪れた長州の高杉晋作や多くの志士たちと議論を交わした館であると案内にある。

 松代は至るところに往時の建物があり、小路の片隅にも歴史、文化を残していて、昔日がしのばれる街である。
(2010年1月9日号掲載)

写真=「竹山」とも呼ばれる象山には地下壕が掘削されている