記事カテゴリ:

11 良寛に学ぶ(下)

 日本には敬愛する人や職に対して「さま」を付けて呼ぶ習わしがある。神さま、仏さまをはじめ、お大師さま、お大工さま、お医者さま、庄屋さまなどのように。

 そんななかで、個人に対して、古今を通じて、何のためらいもなく尊称として使われてきたのは「弘法さま」と「良寛さま」ではなかろうか。こんなことがあった。新潟県の出雲崎でのこと、タクシーの運転手曰く「最近の若い者は"良寛"って呼び捨てにしている。駄目です。"良寛さま"でなきゃいけないんです」。

 夕闇せまる道を歩いている良寛を見つけて「そうだ、仕込んで置いた濁酒(どぶろく)が丁度いいころだ」。良寛を呼び止めて縁側に腰を掛けながら、漬物をつまみに舌鼓を打つ。良寛さまの話はほんとうによく分かり、心に沁みる。お帰りのときには大根などわずかな物を差し上げる。そんなとき、「良寛にくれてやった」のではなく、「良寛さまに貰ってってもらった」という思いがあったのだという。良寛は心の支えとして、あり続けたのだろうと思う。

 良寛の偉さと魅力は近寄りやすくして近寄り難く、当代一流の学殖と文芸の道を極めながらも、ひけらかすことなく、己に厳しい修行者としてありながら、地位高き高僧として大寺の住職としてあったことなく、いつも大衆に寄り添い、一介の乞食の在野僧に、徹し切ったことであった。

 青年時、備中国円通寺での火の出るような修行の後、諸国を浪々。越後に帰ってからは、五合庵ほかの草庵に明け暮れ、清貧を貫いた生涯であった。

 貞心尼との出会い
 そんなある日、貞心という若き尼僧が和島村の良寛を訪ねてきた。結婚に破れ、悩める子羊が良寛の名声を慕い、救いを求めてのものであった。時に良寛70歳、貞心尼30歳。

 貞心尼を語ることは、人間良寛を語ることでもある。二人の間を描いた安田靫彦画伯の絵は、小さな行灯を中にして端然と向き合うものであるが、良寛の白衣をまとった温容から鋭き眼光を貞心に注ぎ、黒衣をまとった貞心尼の後ろ姿には、教えを請うもののひたむきさが溢れ、絶妙の対象をなしている。清澄の気と品格が漂い、鉄瓶からは煮えたぎる音が静かに聞こえてくる。規範を超えて相寄る魂をも暗示させてくれるものだ。

 貞心尼は隣村与板から露草を払い、提灯を頼りに塩入峠(しおのりとうげ)を越えて、いかほど良寛の元を訪れたことか。ふたりの相聞歌を読むと、愛憐と慕情が次第に昇華していくさまがよく分かる。貞心尼にこんな歌がある。

 秋萩の花咲くころを
 待ちとほみ 夏草分
 けてまたも来にけり

 詠む歌に艶がかかるのは、おのずからなる帰趨と言えよう。

 良寛は74歳で亡くなっているが、死期迫ったころ胃腸を壊して下痢に悩まされ「いや堪へがたし」と苦痛を訴えている。そして

 この世らの明けはなれなば おみな(貞心尼)来て ばり(尿)を洗はむ...

 と語る。貞心尼の献身的な介護の姿が見えてくる。汚物にまみれた良寛を思うことは、しのびて余りあることだ。良寛の臨終に立ち会った4人の中には貞心尼の姿もあったのだという。

 良寛は教養も修練も志も、温容と静けさに隠れて表立っては見えないが、何よりもその人間的な深さにおいて破格の存在だった。
(2010年7月10日号掲載)
 
美しい晩年