
保科川右岸の市道を上がっていくと須釜集落の手前に大岩があり、そこに登山口がある。
しばらく沢筋を上がると約20分で城跡へ続く稜線に出る。この先は虫害被害木処理の作業道を探しながらの登山となる。
稜線から城跡までは約50分。本丸を囲んで前後に石積みが残る幾つかの郭跡の平地があり、郭間には堀切の遺構がある。須釜集落から城跡までの比高は約300メートル。城跡まで急峻な地形が続く本格的な山城である。当地には保科川に沿って菅平を経て上州へ通じる街道があったので、交通の要衝でもあった。
築城年は不明だが、地元に勢力を持っていた保科氏が築城した。若穂保科にある広徳寺の場所が保科氏の居館跡と伝えられている。寺歴によると、平安時代、川田一帯を治めていた保科氏が絶え、後に井上氏から分かれた忠長が保科氏を再興したという。
その後、数代を経て保科正利が広徳寺を開基した。戦国期に入って保科氏は村上氏との戦いに敗れ、村上氏に降った派と高遠に落ち延びた2派に分裂した。
高遠の保科氏はその後、武田氏、北条氏を経て徳川氏に就いたとき、3万石を領する大名となり、2代将軍・徳川秀忠の4男正之を養子に迎え、やがて会津23万石の大名になった。幕末の会津藩主・松平容保は京都守護職として見廻組や新選組を指揮し、治安の確保に奮闘したが、後に明治政府から辛辣な仕打ちを受けることになる。
若穂保科地区には清水寺や長田神社など著名な社寺が存在している。清水寺は801(延暦20)年の開基と伝えられる古刹であり、後者は平安時代の創建で保科郷六カ村の氏神として崇敬を集めた神社だ。500メートルに及ぶ参道のケヤキ並木が、隆盛をきわめた往時をしのばせる。
(2010年4月24日号掲載)
写真=保科氏の居館時代の裏門を移築したといわれる広徳寺の総門