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12 遅い出発を嘆くな

 よく知られた外国の詞の一節に

 明日、世界が滅びようとも、私は今日リンゴの木を植える

がある。生き方の権化のようなものが伝わってくる。泰然自若としていて、狼狽えることの対極的な姿がそこにある。

 あと十年生きればいいと...
 いつまでの命よ挿木なんかして
 (龍野市 山本紅園 1998年4月6日朝日新聞)

 余生を考えるようになった。ヨロヨロしながら庭木いじりなどしているのであろうか。挿木が活着するか、しないか。それを見届けることはできないのかもしれぬ。傍観者としての目ではなく、自問自答している作者がそこにいる。「の命よ、なんかして」に、深い味わいが残る。

 「あと十年生きればいい」といいながら
 植えし庭木のわが丈越しぬ
 (鹿児島県 押勇次 98年2月1日付朝日新聞)

 苗木を植えたのである。あと10年と自らを励ましてはみるものの、幼木の成長を見届けることなど、おぼつかない思いでいたのだが、なんと俺の背丈を越すほどになった。背比べをしているニコニコ顔が見えてくる。

 命ある限り、一生懸命生きなければならないのである。老年(老人)には老年にふさわしい生き方が、いくらでもある。実際、そのように生きている人は、挨拶にしても、立ち居振る舞いにしても生き生きしている。足捌ききにもそれが見えるのである。

 99年9月5日の朝日新聞の記事から。「毎朝7時5分。信濃川にかかる万代橋をリヤカーを引いて渡る女性がいます」(斎藤健一さんのファクス)

 自転車で出勤途中、新潟市の中心部に架かる万代橋で一人の女性と擦れ違う。リヤカーの荷台は山と積まれた箱に入った魚。黙々とリヤカーを引く姿が働く美しさを謙虚に語ってくれる。すげ笠をかぶり、かっぽう着にジョギングシューズ。加藤久代さん78歳。橋を渡る時刻は行商を始めてからの40年間、変わらない。7年ぶりに新潟に戻った今春。以前と同じ時刻に同じ姿勢で橋を渡っていく姿に接した瞬間、感動が突き上げてきた。リヤカーは10台目だという。

老イテ学ベバ
 門の前足袋を履かずに百歳が「お寒うございます」と通りぬ (作者不詳)

 歌からは百歳の老婆が、寒の最中素足で「達者なものだ」だけでなく、「お寒うございます」からは慎ましく凛とした響きまでが聞こえてくるようだ。単なるしっかり婆さんでなく、前向きに人生の先達として生きる、お手本のような存在が見えてくる。

 「さぁ、何かを始めようとする限り、あなたは大丈夫だ」。75歳を過ぎたのだ、いまさら、とどっかり座り込むのではなく、自らを鼓舞したいものだ。遅い出発を嘆くな。嘆いても始まらないのである。昨日は昨日、今日は今日。今日という日が新しい出発の日なのである。

 私の知人に脳梗塞で倒れた人がいる。彼は「物を考えるのは疲れるが、快い疲れだ。なにもしないでいるのはくたびれるだけだ」と。歌手の二葉あき子の言うように「ついでに生きてるんじゃない」のである。

 江戸後期の儒学者佐藤一斎のことばに
 「壮ニシテ学ベバ 則チ老ユトモ衰エズ。
 老イテ学ベバ 則チ  死ストモ朽チズ」

がある。(2010年8月7日号掲載)