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13 故郷で教師に〜中学高校で斬新授業 生徒連れ秋山郷へも

13-ichikawa-0731.jpg 東京高等師範を卒業して故郷の小布施に戻ったのは1948(昭和23)年です。現長野高校への就職が内定していました。ところが「市川は学生運動をやっていた左翼」といううわさを立てられていました。学生運動といっても反戦デモに参加したことがある程度で、活動家だったわけではありませんが、就職は流れてしまいました。

 そんな時に、都住村立中学の校長だった中学時代の恩師から「君、どうするんだ」という連絡があり、「決まっていません」と答えますと「ウチに来い」ということで新制中学校の社会科教師になりました。

米国のテキスト使用
 世界的にも最新の地理学を学んできた新任教師です。やる気いっぱいでした。戦後間もなくの、貧しいが希望と活気のある世相にも後押しされ、斬新な授業をしました。アメリカの地理学のテキストを自費で買い、参考書として使用したのです。

 中学の地理ではまだ導入されない概論的な内容をこのテキストで教えたかったのですが、生徒たちにとっては英語さえ習い始めたばかり。英語と地理を一緒に教えるような授業でした。時代の最先端だ、ということで、県の指導主事からも感心され、褒められました。そして1年後に母校の須坂西高校(現須坂高校)に赴任しました。

 大学に残る道をあきらめて故郷に戻る格好になったわけですが、地理屋としてやっていくことは決めていました。東京にいたら、学問の世界でも有利には違いない。しかし学問はどこでもできる。そう思っていましたし、自信もありました。

 ですから、高校に赴任早々から、週末には高校生を引き連れて地域のフィールドワークに行きました。以来、中でも栄村秋山郷の研究は私のライフワークの一つになっており、毎年のように通い、今も親しいお付き合いを続けています。

 食糧事情が厳しかった当時は、米と味噌持参です。それを秋山郷の地元の人は、自分たちの主食の粟と混ぜて炊いてくれます。粟は比重が軽いから上の方に固まる。それを自分の方によそい、我々には白い飯をよそってくれました。地元に深く入り込むフィールドワークをした生徒の中からは、後に地理屋になった人が何人もいます

母校で郷土部顧問も
 須坂西高校では、かつて私も在籍し、開校以来の伝統ある郷土部(郷土研究クラブ)の顧問をしました。日曜日に部員10数人を連れて自転車で遠くは小諸までフィールドワークに行ったこともありました。まだ舗装されていないガタガタの道。ほこりだらけですし、さすがに疲れました。

 ノーベル賞候補になった信大工学部の遠藤守信教授も郷土部員でした。講演で「収集したデータを統計処理して分析する方法を市川先生から教えられた」と話されています。自然科学と人文科学の違いはあっても科学の方法論は同じです。

 このような野外活動は教師のボランティアです。入学試験前の補習授業も、学校が行うのではなく、生徒が頼みに来たのです。謝金などはありません。皆がやる気にあふれていた時代です。補習内容が受験問題と百発百中で生徒に喜ばれました。
(聞き書き・北原広子)
 (20100731号掲載)

 
市川健夫さん