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14 特等入選論文〜「長野県農業のあり方」 県が募集賞金1万円

14-ichikawa-0807.jpg 何を見ても地理学の視点になる根っからの地理屋の私が、学校の教師という仕事だけで満足できるはずはなく、学校以外の活動や研究にも取り組みました。

 故郷に戻った戦後間もなくのころは引き揚げ者も多く、戦争のせいでかなわなかった勉学への渇望が社会に渦巻いていました。農業分野も同じです。そんな需要に応えるため「農業青年通信講座」という、ラジオの通信講座が始まりました。

 農協から独立する形で発足し、現在まで農業専門の出版社としてユニークな業績を挙げている農村文化協会の長野県支部の主催です。

通信講座の講師も
 テキストの監修は東京大学の著名な先生方。受講生の交流あり、実務あり、理論ありの充実した内容でした。飯田市出身で、私も東京高師時代からお世話になっていた古島敏雄先生は歴史学者。川島武宣先生は法社会学者という広い視野からの監修です。私も風土と農業で執筆陣に加わりました。

 川島先生は東大の院生を連れて小布施を訪れていました。急病で新生病院に入院された。暇になられると私を呼び出して「今の小布施はフランス革命下の農村に似ている」とおっしゃったことが印象的でした。

 世界に目覚めた青年たちの熱気に満ちていたわけです。男女合計2万8千人という通信講座の会員数は、新たな時代の息吹を感じさせましたし、農業を通じた地域づくりにも燃えていました。有志が自主ゼミのようなグループをつくり、私は講師として招かれました。

 都住村(現小布施町)の青年団とは毎月のようにゼミをもち、特に深くかかわりました。私は20歳そこそこ。受講生もほとんど同世代です。講師の謝礼が卵20個というのに驚きつつも、仲間のようなお付き合いでした。

 伊那にリーダー的な人がいると聞き、有志の青年たちと調査に行ったこともあります。「伊那に来るより、ちゃんと地元でやれ」とはっぱをかけられましたが、座光寺小学校(飯田市)の畳敷きの部屋を提供してもらい、そこに2泊して聞き取りをし、語り合いました。

 ちょうどそんなころ、村議をしていた父が亡くなりました。62歳でした。母も体調を崩し、治療費がかさみました。戦後のインフレ、新円への切り替えなどで経済は混乱した。かつては裕福だった中産階級も没落。弟も東京で学生生活をしており、私もお金に困っていました。

お金に困って応募
 たまたま、知り合いの信濃毎日新聞の田中編集次長が「金がないなら県の論文に応募しなさい」と、県農政部の「長野県農業のあり方」という提言論文の募集を教えてくれたのです。「県の農業は自然風土に適したものであるべきだ」という主張の論文を3日間で書き上げました。

 この論文が特等になり、賞金1万円をいただきました。一口に「800円ベース」と言われた月給は800円が基準であった時代の1万円です。母の病気治療に大いに使用することができました。
 
 なお1等は後に県農業試験場の場長になった上原さん、2等が農協中央会の松沢さんで、いずれも農業の専門家という中での異色の受賞でした。「長野県知事賞特等入選論文」として信毎に掲載さたので反響があり、これを契機に県農政部とのお付き合いも生まれました。
(聞き書き・北原広子)
(2010年8月7日号掲載)
 
市川健夫さん