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15 結婚生活〜お留守番も育児も全部妻に任せきり

15-ichikawa-0821-p.jpg 1952(昭和27)年に信濃教育会教育研究所に出向しました。全国的にも類をみない民間の教育研究所で、校長になる人の多くはここへの出向経験がありました。

 1年間の出向期間中の仕事は、他の先生方と共同で、長野市の都市部と農村部のコミュニティーについて調査研究することでした。おかげで長野市と周辺をくまなく歩くことができました。静岡県で全国教育研究所長会議があり、代理出席を命じられ、25歳の若造ながら、にわか勉強して所長会議に出席したこともありました。

野球ばかり強くなり

 このころには食糧事情も良くなり、新しい教育制度の下で高校野球も復活。「6・3・3制野球ばかりが強くなり」という川柳が流行しました。新しい教育制度になったものの教室も教員も不足していて、屋外でできる体育だけは盛んだったことを揶揄したものです。

 そんな世相の中で、私は川上久美子と結婚しました。私は女性は大好きです。しかし、それよりも地理学の方にのめり込んでいました。教育研究所の次の赴任先として、当時は女学校だった現長野西高からお声が掛かったときもお断りしてしまったくらいです。

 地理が専門の校長先生から「来い」と呼ばれたのはうれしかったのですが、先輩から「女の子の指導は手間がかかる。同じ子を2回指名するとほかから総スカンだ」とアドバイスされ、指導の手間よりも研究生活を優先させる方を選び、須坂西高校に戻りました。

 須坂西高校にも一つのクラスに2、3人の女子がいました。でも、当時まだ男子校のような高校に来る女子は、成績もさることながら心意気の強い子でもありましたから、指導が必要とは感じませんでした。

 そういう私にとっての結婚は、妻には申し訳ないと思いますが、お留守番ができたという感じです。もともと妻の兄と私は親しい友人で、よく遊びに行っていたのがご縁です。私のような研究一筋の者のところに来てくれる人がほかにいたのかどうか分かりません。

 父が亡くなってから、私は母と2人暮らしでした。教育ママぶりを発揮する対象がなくなった母は、女性運動の活動家として各地を飛び回り、大変忙しい日々を過ごしておりました。ですから私の結婚後、家事は一切合切妻に任せきり。妻は「夫2人を世話していたようなもの」と言っていました。

 現在教職に就いている2人の息子の子育ても家事も、全部妻に任せきりでした。ただ、フィールドワークに出る時に息子たちを連れて行ったこと数回はありました。その時も行きは一緒で、仕事の足手まといになると先に帰らせるといった具合でした。

手を焼いた弁当盗
 2度目の須坂西高校には、1953(昭和28)年から64年まで勤めることになります。長野西高に行っていたら、こんなことはなかったと思ったことが弁当の盗難でした。冬季暖房の練炭の上にアルミの弁当箱を置いて温めておきますと、食べ盛りの男子生徒が腹をすかして、他の生徒の弁当を食べてしまうわけです。蓋を開けたら中身が消えていてびっくり。そうならないように見張る役割が、戦後の教師にはありました。
(聞き書き・北原広子)

(2010年8月21日掲載)

写真=長年連れ添ってきた妻と(東京学芸大の退官記念に撮影)
 
市川健夫さん