
宮中のお姫様からの直々の要請に、加茂の神様は「ハハー。私でよければ」と請け負った。何しろ京都の賀茂(加茂)神社は宮中がお世話をしていたから、宮中からの要請とあれば否応もない。無事に姫を善光寺に送り届けた加茂の神は姫の安穏を祈り、善光寺聖域の西口である「西長野加茂」に鎮座した次第だ。
加茂神社の由緒では、これが一番分かりやすい話だ。その証拠に、同神社の秋の大祭には毎年、大本願のお上人が参詣される習わしになっている(今年は鷹司誓玉上人が左足骨折のため中止)。
加茂の神にガードされて善光寺に導かれたのは、歴代上人の誰であるかは分からない。記録があったであろう大本願は、江戸時代から昭和までたびたびの火災で古文書が失われ、加茂神社創建の由緒は口伝えしかない。
加茂神社について歴史学者は「一般の神社と同じく、最初は土地の守り神=産土(うぶすな)神でした。権威付けに大本願の上人が勧進したという伝説が加えられたのでは」と言う。
また郷土史家は「善光寺如来が信濃に来たとき、その輿を担った18人が住み着いた場所で、昔の地名は腰村(輿村、越村)でした」と解説する。
近辺には加茂小学校や西部中学、信大教育学部があり、みな地籍は西長野だ。古地図を見ると、周辺に「袖長野」「中長野」「上長野」という字名もある。
「長野」という地名は、南下がりの長い斜面のことを意味する。道路を挟んで神社の北に立つ長野県自治会館ビルに上ってみると、南方の県庁ビルが立つ辺りに向かって長い傾斜地であることが分かる。
この神社は「長野」という地名が発祥した原点でもあるようだ。