記事カテゴリ:

080 加茂神社(下)〜県名にまで出世した「長野」

80-rekishi-1017.jpg 前号でも触れたが、西長野の加茂神社は長野の原点であるらしい。「『長野』という地名の由来を知っていますか」。知人や友人20人余りに聞いてみたところ、異口同音に「知らない」「学校でも教えてくれなかった」との返事。

 これは由々しきことだ。長野市民ひいては長野県民220万人の大半が、どうやら自分の住む地名の由来、語源を知らないままであるらしい。「南北に長い県ですから、多分その辺から来たのでは-と、今まで詮索することもありませんでした」という人が大半のようだ。

 私が「長野」の語源を知ったのは、隣家の故関川千代丸さんから著書を頂いたのが契機だった。県職員だったが、郷土史家・小林計一郎さん門下の篤学の人だった。氏の著『長野史』によると、長野の地名が古文書に初めて登場するのは元亀元(1570)年。武田信玄が武勲のあった部下に土地を与えた書状に「長野之内五貫文」とある。

 慶長6(1601)年の大久保長安(徳川家康の幕僚)文書には、善光寺の所領を認めた文書に「信州水内郡之内長野」と記されている。

 この長野村の位置は、古地図によると、加茂神社と近くの信大教育学部から市立長野図書館の辺りだ。長野村は発展して1874(明治7)年、長野町になる。71年には今の中野市にあった中野県庁が善光寺参道に近い西方寺に移転し、長野県庁とした。76年、南の筑摩県ものみ込んで長野県になった次第だ。

 長野町は周辺町村を合併して、97年に市制を施行。関川さんは「長野という地名は、小さな村落名が発展してトントン拍子に県名にまで出世しました。非常にパワーのある地名です」と述べている。

 加茂神社の境内には、保科五無斎の巨大な顕彰碑が立つ=写真。作家の井出孫六さんは五無斎を「信州地学を開いた奇矯の教育者」と評している。古木が立ち並ぶ広大な神域は、西部中学生が清掃奉仕をしているので、いつ来てもすがすがしい。昔、近辺には古墳が散見されたという。長野の地名発祥の氏神でもあるようだ。
(2009年10月17日号掲載)

 
足もと歴史散歩