記事カテゴリ:

082 諏訪神社(下)〜伝統誇る手作り瓜割煙火

82-rekishi-1114-01.JPG 諏訪神社の氏子は新諏訪町の住民だ。「では、旧諏訪町というのがあったのですか」と不思議に思われる人もいる。

 実は、新諏訪町は旧字名(町内の区域名)を採用したものだ。この町は西長野町(氏神は加茂神社)から1936(昭和11)年に分町した。

 けんか別れではない。「西長野町内が広く、回覧板の文書を配るのに1日もかかり不便。それにオラホにはお諏訪さんがある」というのが、分町の理由だ。今や町村合併は普通のことだが、分町というのは自治のエネルギーが必要となる。

 この辺りは江戸時代以前から郷路山の安山岩で燈籠や五輪塔を作り、善光寺の石畳や鉄路の砕石などが一大産業だった。畑作物は善光寺町に出荷して稼いだ。大そうストック=資産のある住民が多かった。

 奉納煙火は手作りだから、氏子に資産と余裕がなくてはできない。市内では妻科、加茂、犀川神社など約35の神社が花火の伝統を誇る。

 諏訪神社の近くを通る戸隠古道には、善光寺七清水の一つ「瓜割清水」が湧く。夏場、漬けた瓜が割れるほど冷たいことから、その名が付いた。

 名水にちなむ同神社の瓜割煙火の準備は、参道の花火小屋で硝石・硫黄・木炭をすり、竹筒に詰める作業から始まる。「若手が少なくなって花火も縮小気味です。採石場に緑が復活し、枯れ枝で山火事の心配もある」と氏子たち。

 98年長野冬季五輪の開幕を飾った清内路(下伊那)の手作り花火は、厄災を鎮める浄火でもある。幕末のコレラ流行の際には、花火の火薬を嗅ぐと効果がある-との古文書も残る。9月下旬の祭礼で皆が火の粉を浴び、新型インフルエンザ封じを願うのも一興かもしれない。
(2009年11月14日号掲載)

 
足もと歴史散歩