
田町に田面とは何とも直截で平凡な名称だが、創建は平安時代にさかのぼるだろうと推測される。社殿の傍らを用水の鐘鋳川が流れ、「七ツ釜落とし」という水門がある。
昭和30年代まで神社の東南一帯は広大な水田が広がっていた。現在長野グランドシネマズがある辺りから東方の道、平林街道の両脇は一面の水田で、中部電力と柳町中学の校舎が見えるくらいだった。
その昔、水門に集まった人々は公平な分水を誓い、ささやかな祠を建てたのだろう。「豊作を願うなら、お稲荷さんがいい」ということで、鐘鋳川の流域には稲荷神社が集中している。
稲荷神は稲を荷なう農民の信仰を集め、江戸時代に全国的に流行した。この神社は笠間稲荷(茨城県)から勧請したと伝えられる。
豊作になれば、農民は善光寺町で買い物をする。もうけた商店主は花街・権堂で散財する。稲荷神の御利益は回り回って料亭や遊女に及ぶ。
そんな次第で田んぼの神様は、隣の花街から絶大な信仰を集めるようになった。玉垣を見ると著名な料亭、置屋、芸妓組合の名がずらり。個人名も近隣の西・東町、新田町、問御所に広がっている。
「若旦那、あたしは心底"ほ"の字なのよ」
「おれも、お前が...」
二人の社頭の誓いが、市中の艶聞や痴話に発展したケースは枚挙にいとまがなかっただろう。拝殿の案内板は「かない川」にちなんで「願いはなんでも叶う」とある。粋でうれしい神社ではないか。
市街化により境内は日陰になってしまったが、秋祭りは盛大だ。伝統の地口行灯が家々に掲げられ、善光寺木遣りの声が響く。神のお告げをくわえた威厳あふれるキツネ像を拝見すると、願いは何でもOKというのを信じたくなる。
(2009年12月12日号掲載)