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085 樋之下稲荷〜農民の知恵「川の上に川」

85-rekishi-1219-01.jpg 通称・樋下神社は奇妙な名前だが、由緒と地形を示している。樋の下に祀った神社という意味で実にユニークだ。

 妻科で裾花川から取水して善光寺町を東西に流れる鐘鋳川(堰)は、吉田を過ぎた場所で浅川に合流するまで十数カ村の田んぼを灌漑した。開削は江戸時代初期の慶長年間といわれる。

 以前は、大雨の翌日早朝には各村に伝令が走った。「大変だ! また鐘鋳川が土砂で埋まったぞ」。朝飯もそこそこに集まった屈強な農民は100人以上に。掛け声とともに農具とモッコで掘り上げた土砂は小山ほどになった。

 「ご苦労であった。皆の衆、昼飯にいたそう」。村役人の声で社殿前に集まった人足たちに、炊き出しの握り飯が振る舞われた。

 社殿の南側を流れる鐘鋳川の上を、湯福川がクロスして流れているこの地点は「土揚場」といわれる。戸隠から流れ出る湯福川は小河川だが、夕立ぐらいの雨ですぐ氾濫した。

85-rekishi-1219-02.jpg 木製の樋を掛けて通水していたが、洪水時の土砂にはひとたまりもなかった。年に何度かは、鐘鋳川の川底を埋めた土砂を掘り上げるための人海作戦になった。右下に掲げた古地図(『長野市誌』から)に、この付近は「長谷越」とある。「馳越」とも表記した。

 湯福川は、現在はコンクリート製の樋でクロスしている=写真下。子どもを連れて行き、現場を見せてやれば、水に苦労した農民の知恵と歴史が勉強できる。

 樋之下稲荷は小体な境内だが、エンジュの古木(市保存樹)が立ち、社殿もよく整備され、おキツネさまの石像も立派だ。細い目でにらむ様は霊力りんりんの感じだ。

 前回の田面神社と同じく「正一位」の位を誇る。稲荷神はどこも最高位なのが面白い。天皇家の厄災を防いだ手柄を評価され出世したという。鳥居の赤は旺盛な生命力を表す、豊作と豊穣の色だ。

 水不足に悩んだ浅川扇状地の利水を工夫した先人たちがしのばれる。
(2009年12月19日号掲載)


 
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